京都
加悦かや谷−与謝郡与謝野町−
 京都府の北部に日本海にのぞむ丹後(たんご)がある。もともと丹波(たんば)の一地方を成していたが、和銅6(713)年に丹波から加佐郡、与謝郡、熊野郡など5郡を割き立国された。
 丹後の峰山、網野、加悦などの地域では昔から絹織物の生産が盛んである。正倉院御物に丹後産の絹織物がある。律令時代には調として都へ送られた(あしぎぬ)は絹織物の一種だった。後に丹後ではつむぎを生産し、さらに享保年間(1716〜35年)に京都からチリメンの製織技術が加悦谷に伝えられ、丹後地方で広く織られるようになった。
 今日、行政区画の再編成によって、加悦(谷)の印象も薄れつつある。国道176号線をゆき河守(こうもり)から大江山(833メートル)を越え、与謝峠辺りから宮津方向に目を向けると、眼下に野田川の段丘に沿って一筋の街道が見える。この街こそ加悦谷のチリメン街道である。沿道の工場(写真上)からリズミカルな織機の音が聞え心地よい。
 丹後は京阪神から僻遠の地にあり、耕地に恵まれない単作地帯である。経済的に苦しい土地柄である。しかし、日本海に近く湿潤かつ比較的温暖な自然条件が丹後に機業の発達をもたらした。加悦、網野、峰山が機業の主要地を成し、網野がハブをなしていた。寡黙で粘り強く、結束力がある丹後人は、企業家精神も旺盛だった。文政3(1820)年、京都・西陣の問屋の資本支配を受け織物に携わっていた人々は利が薄く、いっせいに織機を止め京都の問屋に対抗した。いわゆる大野騒動を引き起こしたのである。その後、次第に丹後に問屋ができるようになり、明治中期ころには地元に問屋制度を確立してチリメン生産が行われた。第1次世界大戦後は手織機から力織機へと生産方法を変え、丹後は西陣とは異なる道を歩み始める。丹後人のこうした先取の気鋭に富んだ企業家精神は大野騒動の拠点となった大会所(中郡大野村に設置。生産組合)のもとに結束し、花開いたのである。丹後がアメリカのニューイングランドや北欧の縮図といわれたのもそうした機業家たちの強い結束力ゆえであった。
 第二次世界大戦後は、ナイロンなどの化学繊維の出現により丹後のチリメン産業は大打撃を受けた。しかし今後、1世紀を経ずとも地球上から石油資源が枯渇することを思えば、絹を原材料として力織機を用い生産される丹後チリメンは政策的にも重要な産業分野の一つとなるであろう。
 夏の日、加悦谷のSL公園や作山古墳公園(写真下)は遠来の観光客で賑わっている。作山古墳の傍に「はにわ資料館」がある。丹後の古墳文化がわかる良い施設。また、加悦谷の上流部に設けられた「椿文化資料館」(写真下)は椿の花弁形をしたほほえましい施設である。椿の総合展示施設といったところ。当地はヤブツバキの珍種・黒椿の頂点木が所在するところ。4月初旬に沢山の花をつけるという。

 加悦、網野など丹後には巨大な古墳が実に多い。加悦の蛭子山古墳(復元長170メートルの前方後円墳)や作山古墳群(円墳、前方後円墳、方墳が混在する集合墳。1号円墳の全長36メートル。写真下)、峰山の湧田山古墳群(盟主墓は全長100メートルの前方後円墳)、丹後町の神明山古墳(全長190メートルの前方後円墳)、網野町の銚子山古墳(全長198メートルの前方後円墳)などである。築造時期はいずれも4〜5世紀とされるが、高密度の古墳の存在や蛭子山古墳に見る立派な舟形石棺や中国鏡などの出土は一体何を示唆しているのか。大和や河内に所在する王墓の縮図のようにも思われる。
 僻遠の地に花開いたいわば丹後文化とヤマト王権のそれとの接点はどこにあるのだろうか。丹後の巨大古墳につき畿内の形式を単純に引き写したようには思われない。また、作山古墳における埴輪を使用した陶棺の存在は埴輪の再利用と単純に考えてよいのだろうか。墓制の彼方に北九州の甕棺墓やひいては朝鮮半島の習俗が映し込まれてはいないか。丹後の古墳文化は朝鮮半島を含む環日本海文化の延長線上の文化。遠い時代に朝鮮半島から渡来した人々が織機や墓制を伝え、当地や由良川流域の桑の生産地である丹波の何鹿地方とも結びつき織物の一大生産地を成し、それを富の根元にして古墳を築き上げた豪族たちが丹後王国を支えていたのだろう。それは北九州や出雲との結びつきや弥生墓から出土する鉄ていなどからみて、応神紀にみる渡来より相当早くから朝鮮半島から丹後に渡って来る人々との交流を通じて育まれた文化であったに違いにない。丹後の前方後円墳は、ヤマト王権の統治組織の整備が進む倭の五王の時代ころから次第にヤマト王権の影響を強く受けるようになり出現したものだろう。−平成22年7月− 

作山古墳 加悦SL公園 椿文化資料館
加悦谷