京都の北部に平地(ヘイジ)峠がある。加悦谷(与謝野町)から大宮、峰山を経て網野に至る幹線道路にその峠はある。傍らで平地地蔵とよばれる石造りのお地蔵さんが佇んでおられる。台座を含め、5メートル余。工人は丹後の名工長谷川松助。丈六仏(1丈6尺。4.85メートル)と思うが像高の仔細はよくわからない。
京都府下では泉橋寺の山城大仏(露座の地蔵菩薩)が丈六仏とされている。兵火による損傷等によって原状より少し低い。目下、平地地蔵が府下最長身の石造地蔵菩薩像と思われる。
平地地蔵の造立は天保4(1833)年。峠を下った大宮町(下常吉)在の常林寺八世勝音和尚が勧進し、地元の諸宗派の協力のもと京・大坂の商人や旅人等約7万5千人の喜捨を得てお地蔵さんは造立された。石を切り出した場所も特定され、造立の一部始終がわかるおj地蔵さんとして平地地蔵は貴重である。
お地蔵さんの造立から5年後、傍らに平智山地蔵院(常林寺別院(尼僧の庵寺。現在無住)が建ち、いつしかお地蔵さんは「あざとり地蔵」とよばれるようになったという。
お地蔵さんは実に大きなものだ。晩秋の紅葉を背にして峠道をごらんになっておられる。
境内下の峠の脇には落差2メートルほどのささやかな滝がある。滝はお地蔵さんがいます平智山から湧き出た水。満山を潤し、峠道沿いの棚田を養っている。平和でよい風景が丹後にある。
例年11月23日、地元の世話役によって、平地地蔵の‘蓑かけ行事’が行われる。令和4年、時おり小雨が降るその日、午前8時から始まる行事に向かったが、与謝野町で道草をして間に合わず到着したのは10時ころ。行事は終っていてお地蔵さんは蓑を着用され、花が供えてある。
頭巾を被り蓑を羽織ったお地蔵さんは一昔前の丹後の冬装束。それは雪が舞う’うらにし(季節風)’がふきつけるこの地方の外出着であった。
丹後の人々は「お地蔵さんも寒かろう」と、藁(わら)で蓑と頭巾をあみあげた。総重量は約60キロ。府下最大の蓑でなかろうか。蓑は4年ごとに新調され地区役員が毎年、数名がかりで梯子と竹竿を使って着せるという。
大和・十輪院の石造地蔵菩薩立像は本堂に在り、花崗岩の厨子(石仏龕という)に納まっておられるが一般的には、お地蔵さんは野仏。村の杣道や遍路道で帽子、前垂れなどの接待を受け佇んでおられる。 歯痛、咳止め、交通安全、天下泰平等々、衆生のお地蔵さんへの願いは多種多様。出世祈願や大学受験の合格祈願まである。衆生の現世利益の願いが尽きることはない。
平地地蔵の勧進(造立資金の募金)は常林寺をはじめ諸宗派が相協力して行われた。当時の関係文書が常林寺に保存されているという。私はその文書を見ていないがどうも勧進の趣旨は不詳もしくは真意が隠されているようにも思われる。史家などの見解に諸説あり定説はない。
それにしても数ある仏像の中からなぜ如来でも観音でもなくお地蔵さんが選ばれ、平地峠に造立されまた造立の目的は何であるのか。疑問は尽きない。
お地蔵さんの造立年は天保4(1833)年。当時の丹後地方の社会情勢をみると、文政3(1820)年に大野騒動※(西陣資本に支配された機屋のストライキ)、同騒動の2年後、文政5年に農民一揆(1822年)が勃発し、石川村(現与謝野町)の2名が死罪(打首、獄門)に処せられている。衝撃的な事件は丹後の人々の脳裏に深く刻まれ悲劇を共有したことであろう。
文政一揆は米の単作地帯で耕地が狭く生活に困窮した農民が副業としてチリメン機業に活路を見出そうとしていた時期におこった。増税(新税)の撤廃を求め命を賭けた農民の宮津藩への強訴事件だった。
※ 西陣のチリメン問屋に待遇改善を求め、丹後一円の機屋が一斉休業(ストライキ)をおこなった。峰山藩の大野村在の大会所が拠点となった。 |
しかし平地地蔵の造立が一揆の犠牲者に対する追悼であった確証は何もない。日本では人が死んで四十九日か七十七日を過ぎると霊が神となって村や家族のもとに戻ってくるという祖霊信仰がある。しかし、夭折した子供や戦死した者、一揆で死罪となった者が救われることはない。特に子供に関係するお地蔵さんは実に多い。その救済、再生は地蔵菩薩に頼るほかなかったことであろう。
平地地蔵の勧進関係資料が常林寺(峰山藩領内)にあるという。しかし一揆おこした者が例え他藩の者でも上意に反する資料を寺が残すとは考え難い。まして一揆のほとぼりが冷めやらない時期に勧進の趣意状が表に出ると宮津藩の目にとまる。お地蔵さん勧進の本意が常林寺資料に書き留められている可能性は低いと思うがどうだか。
お地蔵さん造立の趣旨を諮ることは非常に難しいが当時の社会環境等から思案してそれ以外の原因を見出しがたいという意味合いから文政一揆が最もそれに近いと推される。
宮津藩との境に都合よく平地峠(峰山藩)がある。そこにお地蔵さんを造立しても目立たず、本意を悟られにくい。表向き、行路安全祈願の理屈もたつというものだ。宮津藩(本庄松平氏が領有)は親藩。しかし、そこはもともと丹後一国を支配し、親藩に準ずる扱いを受けた京極氏が支配した歴史がある。丹後人の京極氏への思慕は失われてはおらずまた勝音和尚の常林寺は京極氏の菩提寺である。お地蔵さんの造立は万事がうまく進んだとおもわれる。
福知山市街から雲原を経て与謝峠を超えると眼下に、野田川の左手に加悦谷(与謝野町)がみえる。下り坂の中ほどから左折しチリメン街道を行き、京都府道76号線(野田川大宮線)の山道に入ると峠にいたる。峠の名は平地(ヒラジ)峠。この街道こそ網野、峰山、大宮等奥丹後一円で生産された絹織物が加悦谷のそれとともに与謝峠を越え都へ運ばれた日本最古のシルクロード。藩政期には宮津(港)から西回り廻船によって大坂、江戸に運ばれた。航路は海のシルクロードだ。
ヘイジ(平地)峠の名の由来はよくわからない。峠は平坦ではない。多分、ヘイジは土地の形状ではなく経糸、横糸で織る「織物(平織)」を示すヘイジの意ではなかろうか。丹後で織られていた生地。この峠こそ問屋、糸屋、商人、橋立観光の旅行者などが頻繁に行き交う峠だった。到底、追いはぎが出没するような峠ではない。
農地が狭く、米の単作地帯で冬場の仕事が途絶える丹後では農家は果樹を植え、機織りを副業として生活を支えてきた。しかし宮津藩は農業の衰退を憂慮し、織機の台数制限をするなど、峰山藩の機業の保護政策とは異なった。新税の上納は農家の息の根を止めるものであったに違いなし。このことが文政一揆の引き金となって、石川村の二人は死出の旅路についたのだ。藩は違っても、大野騒動で見るように奥丹後人の絆は強い。丹後の人々は二人の死を悼みその救済と再生をお地蔵さんに託した。
丹後の絹織物の歴史は古い。環海をこえ丹後に着いた織機は倭国の繭と湿潤な空気と忍耐強い丹後人を得て絹文化を育んだ。
丹後の絹織物が正倉院御物にみえる。絹織物は律令制下の租税(調)として納められた。絁(あしぎぬ)、精好、つむぎなど機織の技術が受け継がれ、丹後の絹織物は陸海のシルクロードを経て絹文化を伝えてきた。
丹後の着物生地のシェアは今なお日本一。他所の追随を許さない。- 令和4年11月23日-
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