京都北部地方を北流し、日本海にそそぐ由良川河岸から東側を昔は加佐郡と呼び、藩政期は田辺藩の域内にあった。今日の舞鶴市や宮津市由良、福知山市大江町を藩域とし、石高3万5千石。寛文8(1668)年、京極氏が丹後・田辺を去ると摂津から牧野氏が入封し同氏が明治維新まで藩主を務めた。小藩であったが隣接する宮津藩同様に親藩だった。第三代藩主牧野英成は寺社奉行や京都所司代を務めるなど幕府の要職についた。宮津藩の文政一揆を遡ること90年、田辺藩においても享保18(1733)年に藩全域の農民が蜂起した一揆の発生を見ている。旱魃、洪水、病害虫の発生など毎年のように凶作に襲われた西日本の農作物は壊滅的被害を受け、餓死者を出す藩もあった。この地方の路傍などに享保年間の供養塔が多いのもそうした飢饉のすざましさを物語る。
ちょうどそのころ田辺藩主牧野英成は寺社奉行を務めていた。京都所司代に就任すれば、自藩により近くなり何かと好都合と考えたものかどうか、英成は享保9(1724)年12月、京都所司代に就任する。その在任中に一揆は起こった。重税に耐えかねた農民が蜂起し、藩の大幅譲歩を得て年貢は減免。農民側の勝利に終わったかに見えたが、藩は一揆の詮議を開始して領内の一部村落(2ケ村)に新たに500俵の上納米を付加したため代表16人が連判して大庄屋に撤回を申し入れる事態に進展。ついに田辺藩は同年12月、16人を逮捕しうち3人を死刑に処し、その妻子を追放するなど関係者を処分した。由良川右岸(福知山市大江町)のかの地に享保義民顕彰碑(写真左)が建っている。いまなお、供花が絶える日はない。−平成22年8月− |