京都
宮津藩 文政一揆の顛末−宮津市−
 天橋立は、金波銀波の与謝の海を分かつ一本の海道。古くから白砂青松の景勝地として知られたところ。阿蘇の内海を行く小舟は天橋立の絶唱であろう。
 文政5(1822)年12月、この丹後の宮津で百姓一揆が起きた。宮津藩内の数千人に及ぶ農民らが蜂起したのだ。事の起こりは、宮津藩が領内の7〜70歳の男女1人につき1日2文の新税を課す外、農民に対し、先納米1万5000俵と同量の追加上納米を課税するという方針を示したことに対し、農民らがその撤回を求めおこした一揆である。
 一揆農民の攻撃対象は新税の徴収に動員された大庄屋等を含む庄屋60人と、藩と財政上の協力体制を組んでいた豪商等の富裕層25人の計85人であった。農民は12月13日暁方に蜂起。手に手に松明や鎌、斧、とび口などを持ち、一揆の輪がしだいに広がり、庄屋や豪商宅を次々に打ち壊し、宝物、刀剣、金銀、米等を庭先に積み上げことごとく焼きつくしたという。騒動はその日に止まず翌14日、15日と続き、群衆は遂に宮津城へ侵入するという噂が流れるようになった。一揆に触発され、加悦谷や遠くは中郡あたりから押し寄せる農民もあり、天橋立の文殊当たりは一揆に参じた群衆で溢れかえり、遂に一揆の群衆は城下町の北端・犬の堂に達した。犬の堂は城下の喉仏に当たるところ。藩役人と睨み合い触発の事態となったが、農民に手をかけては藩の存在すら否定されかねないという藩側の躊躇もはたらき睨み合ううちに、一揆側は家老栗原理右衛門を交渉相手に名指しで要求。宮津藩は緊急に評定し、江戸詰の身で帰藩中の家老は高齢等の理由からその息子百助を代理に立てることとし、農民らの要求を飲み万人講及び追加上納米の取り消し等を盛り込んだ5か条の評定結果を百助が読み上げた。群衆は納得して引き揚げ、道々、町屋の者に労をねぎらわれ、酒などの接待を受ける者もいた。しかし、一揆農民は、役得を得て徴税に当たる手はずの庄屋への怒りは収まらず、翌16日、17日も庄屋宅などを打ち壊した。さらに18日は群衆を大手門前に終結させ、万人講等の即時停止を要求するとの噂が流れた。驚いた宮津藩は、過日農民らに対し示した5か条の約束を書状にしたため、領内に飛脚を飛ばし、各5人組に1枚当て配布してこの騒動は一応、終結を見たのである。
 問題は一揆農民らに対する強訴の詮議であった。農民ら四十余名が拘引された。そこで様々の事実が鮮明になる。こともあろうに、家老栗原理右衛門の母違いの弟で藩士の関川権兵衛が強訴を指導し、同人が加担したというのだ。理右衛門は藩財政の窮乏を知りその再建に税収の強化が必要なことは職責上知らないはずはなく、同人に領民の強訴に賛意を示す動機を見出し難い。しかし、理右衛門の弁明は通じず、その息子百助とともに入牢。理右衛門は諸説あるが拘留中に獄死したという。百助は破牢し、江戸詰の主君松平宗発(むねあきら)や重役に無実を訴えるため江戸藩邸に向かう途中、宮津藩の飛地所領・近江八幡(滋賀県)で追手に捕まり自刃。権兵衛は死刑に処せられた。
 一方、一揆農民らは文政7年4月、石川村奥山の吉田新兵衛死刑(打首)、同為次郎死刑(獄門)、宮津町の御用大工長五郎無期懲役(永牢)、酒屋庄左衛門追放(所払い)等の処分を受け、藩役人側は留守役沢辺丹右衛門蟄居、五組代官古森乙蔵降格等多数の処分が行われた。死刑は藩士関川権兵衛を含め3人であった。本件共犯の新兵衛は十数人の追手に囲まれ縛につく際、平然と鍋座に座り飯を食う時間を乞い、妻はその一瞬に強訴の連判帳などを焼き捨てたという。
 後、家老栗原理右衛門父子の嫌疑は晴れ、宗発は妻子を江戸に召し、15人扶持を与え住まわせたと伝えられる。宮津市文殊のはずれ、国道際に文政一揆の顕彰碑である「義士義民追頌碑」(写真上)がある。大正15年建立。

 江戸期における農民一揆は庄屋名主層が課税等による農民の窮状を見かね主導するものが多い。宮津藩における文政一揆のように役得を得て、徴税機構に組み込まれた庄屋等村役人への反感から一揆に至る事例もまた多い。
 宮津藩は石高7万石、うち1万石は近江八幡(滋賀県)の飛地領だった。小さな藩であったが、第3代将軍徳川家光の愛妾桂昌院が綱吉を生み将軍職を継ぐと、京都で八百屋を営んでいたとされる桂昌院の実家は大名にとりたてられ本庄姓を名乗った。当主の本庄資昌は遠州浜松の大名になり宝暦8(1758)年、宮津に国替えとなった。本庄家は親藩であったため代々松平姓を名乗り、幕府の要職に就いた。文政一揆の際、当主松平宗発(宮津藩第5代藩主)は40歳。幕府奏者番(将軍と諸大名との取り次ぎ役)に就いていたが、奏者番の3年後輩に水野忠邦がいた。忠邦は年齢も宗発より10歳ほど若かったが文化14(1817)年に寺社奉行に就任。出世争いにおいて忠邦に抜かれた悔しさが宗発を変身させたとしても不思議ではない。それは、宗発に仕える宮津藩の江戸詰重臣の心痛の種であった。宮津藩は従前から優秀な家臣を江戸に集め人件費や諸費がかさんでいたところ、さらに宗発の上役への接待費等に藩費を費消し、その調達を国元に委ねるという悪循環が藩財政を圧迫するところとなった。宮津藩は新税等の導入に踏み切り、庄屋等を増員し税収の確保に周到な準備を行い、庄屋等には口銭を与えた。それはいわば事務費として処方されたものと思われるが、領民には不健全な役得と映り、一揆の口実となっても不思議はなかった。
 宗発のライバルであった水野忠邦はもともと唐津藩主であった。藩内に重要港長崎を抱えその管理に時間をとられておれば自身の昇進に不利になると見るや、石高を下げてまで浜松への転封を画策し成功させている。諫言に及んだ家老は憤死。その後、忠邦は奏者番となり宗発を追い越して寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中というエリートコースを歩んだのである。宗発も重臣もまた民心を忘れ、無思慮にも増税を急ぎ一揆を招いたのである。この辺りに古来、増税の難しさがあって、反対する者への身体的拘束を含む執行体制が担保されているか或いは為政者にゆえなき支出がなく高潔であるなど相当高いバードルをクリアーしないと、財政ひっ迫の折必要だから増税という着想は藩政期においても受け入れなかったのだろう。
 文政一揆は穏やかで忍耐強い丹後人の堪忍袋の緒が切れた事件であった。宮津藩主は人智に長けて概して穏やかな人が多く、一揆は不運な一面もあったかも知れない。
 後年、宮津藩第6代藩主松平宗秀は老中にまで出世。老中在任中、第二次長州征伐に遭遇し、遠征軍の総督差添(実質的な総指揮官。ナンバー2)に任じられた。征伐戦では最も重要な安芸口を攻め長州軍と闘い、捕縛した長州藩家老2名を独断で釈放する事件を起こして老中を罷免される事態に発展している。戦況分析から幕府軍に勝利の目がないとみた宗秀は部下の無駄死を回避するため行った収拾工作が裏目に出たのだろう。役目を帯び軍吏に立った宮津藩士依田伴蔵は長州藩士に狙撃され戦死。何とも凄惨な最期を遂げてている。広島県廿日市市内の故地(西国街道の四十八坂の一隅)に伴蔵の慰霊の祠がある。戦前は伴蔵の命日の日に宮津方面から慰霊団がきて芝居小屋が建ち、大いに賑わったと伝えられる。

天橋立

 田辺(舞鶴)藩の享保一揆
 京都北部地方を北流し、日本海にそそぐ由良川河岸から東側を昔は加佐郡と呼び、藩政期は田辺藩の域内にあった。今日の舞鶴市や宮津市由良、福知山市大江町を藩域とし、石高3万5千石。寛文8(1668)年、京極氏が丹後・田辺を去ると摂津から牧野氏が入封し同氏が明治維新まで藩主を務めた。小藩であったが隣接する宮津藩同様に親藩だった。第三代藩主牧野英成は寺社奉行や京都所司代を務めるなど幕府の要職についた。宮津藩の文政一揆を遡ること90年、田辺藩においても享保18(1733)年に藩全域の農民が蜂起した一揆の発生を見ている。旱魃、洪水、病害虫の発生など毎年のように凶作に襲われた西日本の農作物は壊滅的被害を受け、餓死者を出す藩もあった。この地方の路傍などに享保年間の供養塔が多いのもそうした飢饉のすざましさを物語る。
 ちょうどそのころ田辺藩主牧野英成は寺社奉行を務めていた。京都所司代に就任すれば、自藩により近くなり何かと好都合と考えたものかどうか、英成は享保9(1724)年12月、京都所司代に就任する。その在任中に一揆は起こった。重税に耐えかねた農民が蜂起し、藩の大幅譲歩を得て年貢は減免。農民側の勝利に終わったかに見えたが、藩は一揆の詮議を開始して領内の一部村落(2ケ村)に新たに500俵の上納米を付加したため代表16人が連判して大庄屋に撤回を申し入れる事態に進展。ついに田辺藩は同年12月、16人を逮捕しうち3人を死刑に処し、その妻子を追放するなど関係者を処分した。由良川右岸(福知山市大江町)のかの地に享保義民顕彰碑(写真左)が建っている。いまなお、供花が絶える日はない。−平成22年8月−