九州絶佳選
佐賀
唐津の長い日(虹ノ松原一揆)−唐津市
種うへて 土にもどるや 土くじり <冨田才治辞世句> 
 虹ノ松原の海濱館駐車場の片隅に平原村の大庄屋冨田才治の顕彰碑が建ち、辞世句が彫ってある。
 才治は、唐津藩領と浜崎(天領)境の虹ノ松原に2万5千人の農漁民を集結させ、一滴の血も流すことなく一揆を成功に導いた人。才治は、一揆成功の後、一揆に加担した他の三名の名頭、僧侶とともに自首し、明和9年(1772年)、唐津西の浜で刑場の露と消えた。辞世句は、妻子との別れに当たって、処刑の直前に詠まれたもの。自らを土くじり(早春に吹き上げる土混じりの風)に例え、やがて種を育てる土となることを誓った歌。明和9年3月31日、才治は、土くじりとなって早春の空へと発っていったのである。
 一揆の顛末はおよそ次のようなものだった。
 宝暦12年(1762年)、三河の岡崎から唐津藩(6万石)へ転封してきた初代藩主水野忠任は、早速、財政改革に着手し、海浜や川べりの荒地(砂入地や遊水地)へ課税したり楮の専売化を図るなど税の増収対策を講じた。しかし、明和年間の凶作が重なって領民の不満が一挙に高じ、明和8年(1771年)7月20日、ついに一揆へと発展するのである。
 7月20日の早朝から鍋、鎌をさげた農民が続々と虹ノ松原に集結を始め、海からは漁民が松原に向った。集結した農漁民は2万5千人。農漁民と藩との睨み合いが続いたが、天領地の大庄屋の仲介によって7月24日、一揆の集結が解除された。5日間にわたる無言の抵抗劇の一幕目が下りたのである。
 一揆の首謀者冨田才治らと藩との交渉によって、税制改正は完全に撤回された。集結解除から15日後の8月9日だった。一揆の成功に農漁村が喜びに沸きたったことはいうまでもない。
 一揆の首謀者が死罪になるという幕藩体制下での掟は、唐津藩でも例外ではなかった。自首したにもかかわらず、少年1名を除く才治ほか3名の者が西の浜の刑場に消えたのである。明和9年3月31日のことだった。
 唐津の一揆が起こった明和年間は、農民一揆の規模が拡大し、明和元年(1764年)に勃発した伝馬騒動では中仙道の宿場沿いの農民20万人が蜂起し、江戸期最大の一揆となった。一揆は、はじめ宿場の助郷範囲の拡大政策に反対した信州の農民が蜂起したものであった。一揆の進軍は、中山道の宿に沿って東上し、ついに幕府の江戸包囲網が破られ、とうとう江戸を目前にした桶川宿にまで達したのである。ついに幕府は、助郷拡大の一万日の延期という前代未聞の譲歩を余儀なくされることとなった。
 唐津一揆は、伝馬騒動の7年後に起こった一揆であるが、府内への進軍はなく、虹ノ松原に座して動かず、抑制の効いた抵抗運動であった。唐津藩は税制改正の全面撤回という譲歩を行なった。農漁民の動員規模において、唐津一揆は、江戸期における最大規模の農漁民一揆のひとつであろう。
 唐津藩水野家第4代藩主忠邦は幕閣入りを熱望し、出世の妨げとなる長崎警護の任務を嫌い転封運動を積極的に行った結果、唐津から浜松へ転封に成功。以来、トントン拍子に出世し、老中にまで昇進している。しかし、天保の改革の評判は思わしくなく失脚。その後、老中に再任されたが不祥事により謹慎蟄居、減封の上、山形藩(5万石)に転封。領民から借りた借金を返さなかったため、旧領で一揆が起きている。領民との接触不良が代を経ても改善されなかったようである。−平成18年2月−

虹ノ松原一揆顕彰碑
(海濱館)

虹ノ松原一揆顕彰板
(浜玉町)