もう一つの戦史(第二次長州征伐)−廿日市市大野町−
わすれやめ 胡蝶の夢の つかのまも 花に宿りし 春のめぐみを
                      <依田伴蔵詠歌>
 慶応2(1866)年6月7日、第二次長州征伐が始まった。徳川茂承もちつぐを総督に5万の軍勢が西国街道を下る。宮津、彦根、高田、紀州、大垣の諸藩士が従軍。総督差添は老中本庄宗秀むねひで。宗秀は宮津藩主であった。寺社奉行、京都所司代を歴任して老中になった人。重責を帯び西国街道を西下し、同年6月14日、小瀬川で長州軍と激突。幕府軍の戦況ははかばかしくなく、押し戻されて広島領内で両軍が対峙する。そのうちに、単騎で長州陣地に向かう軍使がいた。

 山鹿流の剣士として名のあった宮津藩士依田伴蔵である。軍使であるから戦闘員とは異なる装束であったかと思われるが、伴蔵は西国街道の四十八坂(大野町、写真左上)で長州軍に狙撃され死亡。慶応2年7月9日の出来事だった。伴蔵は「残念」と、今際の言葉を残し亡くなったことから祠は「残念さん」とよばれるようになったという。軍使たる伴蔵の使命は不詳であるが、宗秀のその後の行動から推して長州藩と和平工作を意図していた節があり、伴蔵はその工作の途上に狙撃されたものではないか。長州藩の兵員は幕府軍より相当劣るものであったが、幕府の前途は風前灯であることは予知していたと思われ、何より兵員の意気が全く異なる様を実感し魔が差したのであろう。それから10日も経ないうちに宗秀は戦況不利の中、長州藩家老2名を独断で釈放、同年7月25日老中を罷免される事態に発展する。
 一方、宮津藩領民の伴蔵への追慕の気持ちは絶ち難く、戦前には、7月9日の伴蔵の命日に宮津から大勢の参拝者が訪れ、残念さんは芝居小屋が建つほど賑わったという。伴蔵もまた・・・花にやどりし春のめぐみ・・・と軍使らしく和平を詠うのである。伴蔵の死は長州藩士の禍根をも誘い、土地の人々によって伴蔵が落命した西国街道の四十八坂の一隅に慰霊の祠(写真右上)が建てられている。

 第二次長州征伐は四境戦争とも呼ばれる。長州軍は芸州口、石州口、小倉口など四境(方面)で合わせて僅か1万人の兵力で15万人の幕府軍に対抗した。慶応2年7月20日将軍家茂が大阪滞在中に急死し、一橋慶喜は同年8月21日解兵の勅を得て、幕府軍軍艦奉行勝海舟を使者に立て、慶応2年9月2日、安芸宮島で幕政一新を交換条件に休戦協定を成立させた。翌慶応3(1867)年10月14日、徳川慶喜は大政奉還の上意を朝廷に提出し、同12月9日王政復古の号令が発出され同夜の小御所会議で徳川慶喜に対し辞官納地を命ずる決定がなされた。幕藩体制は次第に切り崩され、戊辰戦争を経て新たな時代を迎えるのである。−平成19年2月−