京都
丹波の渡来人幻影(丹波氏族と大和王権,新撰姓氏録にみる渡来人の躍動など)
 京都府北部に由良川がある。京都の山間部を北流し日本海に至る由良川は京都盆地を南流し大阪湾に至る桂川とともに京都の2大水系をなす。
 丹後半島を隔て由良川の西に竹野川(水系)がある。日本海に漂着した文化は竹野川や由良川をさかのぼりやがて京都盆地を越え、大和に到達した。わが国が神話時代から歴史時代へと遷移する原動力となったに違いない。古代丹波(今の丹後・丹波。和銅年間に2国に分割)はそれら河川にはぐくまれ、農耕文化が花開き、蚕を飼い、機を織り、稲穂が垂れる爛熟の時代をその脊梁に刻んだのだ。
 また丹後・丹波は朝鮮の鉄文化を受容し、稲作のみならず農具や武器の生産などにつき選択的な優位性があったに違いない。竹野媛が開化天皇妃となり、丹波道主命の女日葉酢姫は垂仁天皇に嫁いだ。やがて皇后となった日葉酢姫は景行天皇を産んだ。記紀は丹波とヤマト王権との強いつながりを暗示し、この国が神話時代から歴史時代へと脱皮し、統一されていくさまを活き活きと描いている。
 竹野媛は大県主由碁理(ゆごり)の女 。由碁理の一族
竹野神社
は、いまの竹野神社(大社。京丹後市丹波町)。辺りに住まいした丹波氏族とみられ、記紀などの記録からヤマト王権の縁者として栄え、丹後、丹波、但馬を勢力圏とし県主、国造、大領などに任じられた大豪族であったことがわかる。神明山古墳(全長190メートル)や銚子山古墳(全長198メートル)など目を見張るような大王クラスの前方後円墳はそのモニュメント。そこは大和から僻遠であったがゆえに、外敵の脅威にさらされることなく渡来の文化をいつくしみ、鉄や絹を供給し王権を支えたことであろう。丹波氏族はいわばヤマト王権のパートナーとして認知され、由良川沿いの県(アガタ)さらに胡麻峠越え桂川流域までも勢力下において諸所の県主や国造或いは大領として時代時代の顔であり続けたことは正史を検索するまでもない。
 9世紀に編まれた「新撰姓氏録」によると、丹波氏族は「丹波史」(諸蛮)として載せられている。丹波氏の氏姓はもと「直」で渡来人系の氏族に与えられる姓。もとは朝鮮語の「上長」(地位の高い人)を意味したとする説がある。読み書き、鍛冶などができ倭人に尊敬されたのだろう。「直」の文献上の初出は、6世紀に鋳造されたとみられる隅田八幡神社(和歌山県)の人物画像鏡に刻された「開中費直」(かわちのあたい)。丹波氏族の姓が「史」(ふひと)にかわった経緯はよくわからない。天武天皇の治下、八色の姓制によって賜姓されたものか。「史」もまた渡来人の姓。丹波氏族は国造や大領に任じられた記録が六国史にみえ徴税や記録に関わる「史」姓を賜ったものか。丹波氏族が「直」と「史」が重なるときはなく、両者は同一氏族とみてよいであろう。都にのぼった丹波氏族の中に四位の位階をもつ者がみえる。地方の大領クラスでせいぜい六位ほどであるから都に出て名を成す丹波氏族もいたようだ。
 新撰姓氏録において、諸蛮に充てられた丹波氏族は秦氏、高麗氏などと同様、渡来系氏族で倭漢氏(ヤマトノアヤウジ)から出た諸氏のひとつ。坂上氏、平田氏、内蔵氏、大蔵氏などと同族である。
 新撰姓氏録から9世紀ころの都の氏族をみると約3割が渡来系(諸蛮)である。都は名をなした渡来人で満ち満ち、さらに渡来人戸主家族の対全人口シェアーはその構成員のすべてが渡来系でないにせよ3割をはるかに超えていたとみられる。(九州では1戸100人を超える家族も存在した。筑前国嶋郡川辺里参照
 丹波における集団渡来の第一陣は遺跡調査の知見から紀元前2~3世紀にはじまっただろう。漢土由来の鍛冶技術やため池、水路、取水堤の築造など灌漑技術を携え、猛スピードで倭国の弥生化が始まった。第二陣は応神天皇の治下。日本書紀は「応神天皇20(3世紀後半)年、倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来朝した。」としるしている。倭漢氏は農業、土木、建築、織物等々の技術を携え渡来し、檜前(ヒノクマ。現奈良県高市郡明日香村)に住まいした氏族。祖先を共有する者が次々と来朝し、檜前がパンク状態になると、彼らは倭国各地に移り住む。阿智使主に従った倭漢氏に先行し渡来した同族もいたであろう。秦氏や高麗氏などの氏族も同様に次々に渡来し倭国各地に移住し漢人、秦人、高麗人が相見え地域開発を進め、本邦の文化は元より農業生産力は劇的に向上したことであろう。明治維新の文明開化のような激変を呈し社会、経済はもとより一層、階層構造の大陸化が進んだに違いない。
 記紀が伝える渡来人の記録はその一部であって、倭国と朝鮮半島との往来は先史時代から日常、行われていたとも考えられる。否、朝鮮語を共有し、両民族が親密な関係を保ちつつ共存した時代があったとみるほうが真相に近いだろう。綾部市内の地名や神社名などにもその名残をとどめるところは実に多い。アガタ、アガタの渡来人が鉄製農具を作り、ため池や井関を築造し、田畑を開き、井路をめぐらせ、倭人と共存した秦人や漢人、高麗人など多様な渡来人がいたのだ。ダイナミックな民族移動と定住の歴史があってこそ丹波、否倭国は瑞穂の国と自賛できるまでに生産力を増強しえたのだ。県主ほどの地位を獲得した渡来人の中には、故国の習俗を失わず墳墓を営み眠りについたものもいたであろう。それは人麻呂の詠歌を詠むまでもなく倭人固有の葬送習俗とは明らかに違うものだった。5世紀~7世紀の丹波は、さまざまの文化が織り成し最も輝いた時代であったに違いない。参照(渡来人による農業開発)
-令和2年10月-uemura