京都
渡来人による農業開発と古墳考(栗村井関,上村古墳群など)-綾部市栗町-
 京都府の北部に綾部(市)というまちがある。人口3万人余。まちの表記は律令制下、漢氏の部民が住まいした「漢部郷」に由来する。藩政期にその呼称を「漢部」から「綾部」に変え、今の綾部市に引き継がれている。
 綾部市は由良川の中流域にあって、まちの中央部を由良川が貫流する。米の単作地帯。湿潤な気候は生糸の生産に適し、養蚕農家が多く、蚕都として綾部の名は全国にきこえ、盛期には人口5万人を越えた。
 夏の「みなつきさん(水無月祭)」、秋の「菊人形」(綾部菊人形)のころ、綾部大橋は身動きがとれないほどの人出で賑わい、子供の歓声に包まれる勢いのあるまちだった。
 しかし、昭和20年代後半、ナイロンの発明によって生糸需要が激減。蚕業は壊滅的打撃を受けまちは衰退の一途をたどり、若者が去り、人口はしぼみ今に至っている。
 由良川の緩い流れは灌漑に適し、堰を設け長大な井路(用水路)を開鑿すると広大な耕地がうまれる(弥生文化の上陸地九州における灌漑施設参照)。沃土はしばしばおこる洪水が運んでくれる。往古、稲作や桑、綿の栽培面積は大いに増えたことだろう。丹波のうましところにたどりつかない者がいないはずはない。

 由良川流域の稲作は上古、どのようなものであったか。弥生遺跡の知見から、3世紀後半から4世紀になると稲作の生産基盤は飛躍的に向上したことであろう。
 弥生の火種は一層燃えさかり、5世紀ころになると由良川本支流域で規模の大きな円墳や方墳、前方後円墳が出現する。墳墓に埋納された鉄製武具や三角縁神獣鏡など副葬品から推し、農工業に一大革命がおこったと推測できる。
 具体的には5世紀後半ころ私市円山古墳聖塚など府下最大級の円墳方墳が築造され、6~7世紀ころになると以久田野を埋め尽くすほどの群集墳が営々と築かれた。その富の根源は稲作や桑の栽培など農業と養蚕等の手工業。以久田野の通称城山から見下ろすと眼下に美田がひろがる。一体、誰がどのような農業技術を施し、繁栄をもたらしたものか、興味が尽きることはない。由良川の本支流を歩いてみよう。

 綾部市に「栗町上村(ウエムラ)」(以下、「上村」と略す。)という集落がある。そこは栗村(必要に応じ「クリムラ」と標記する。)という古代の栗村郷の東端に位置する。今は戸数100戸に満たない純農村。工場、店舗はなく、専業農家は2、3戸。ほとんどが兼業農家である。鎮守の大川神社は古くは「佐陀神社大川大明神」と呼
大川神社
び、もとは延喜式神名帳にしるされた佐陀神社であるらしい。祭神は神名帳に記されず、阿智使主(神名帳考証)、佐太大神(特選神名牒)、大山祇命(明細帳)と諸説ある。阿智使主、佐太大神(佐太氏族の祖神)はともに渡来人倭漢氏の祖神。
 丹波、丹後の豪族、丹波氏も倭漢直を祖とする渡来氏族とされ、綾部にも漢氏の足跡が少なからずある。
 延喜式内社佐陀神社は、藩政期に丹後の式内社大川大明神を勧請し、大川神社と通称されるようになった。佐陀神社に佐陀(サダ)と付されているから、祭神は佐太大神とみるのが自然であろう。「サダ(佐陀)」の由来はつき、「式内社の研究」を著した志賀剛氏は「サダ」は「狭田」と解いている。社は赤谷の吐き出し口に鎮座し谷筋の田は広くはなかったかも知れないがいかがであろうか。
 日本書紀をひくと継体天皇6年(西暦509年?)、百済の要請によって割譲した任那4県中のひとつに娑陀(サダ)がある。そのころ佐陀県の人々が出雲や丹波、北河内などに渡来したものか。出雲や北河内に‘サダ’と称する式内社や地域の地名になっているところがある。
 延喜式神名帳出雲国の条に佐太神社がみえ、出雲国風土記や三代実録によると同社の祭神は佐太大神としている。さらに続日本紀によれば佐太忌寸老が和銅3年4月、丹波守(叙任当時、従五位上)に叙され、渡来人佐太氏がいたことがわかる。また、寧楽遺文によると山背国愛宕郡出雲郷雲上里の戸口に佐太忌寸意由買の名が見え、佐太氏族が広範に住みなした状況が読みとれる。クリムラの佐陀神社(大川神社)辺りにも朝鮮半島から渡来した佐太氏の部民が上村に居住したものか、興味は尽きない。

前方後円墳(上村)
周縁部の南に土塁
 秋のころ、上村の山野を跋渉。大川神社の北西約100メートル、赤谷を超えた雑木林の中に古墳らしき土盛がみえる。それは前方後円墳(上段の画像)であることがわかる。全長30メートル余。古墳南側にみえる土塁は墓域を示すものか。後円部の陥没抗は横穴式石室の石を抜き取った跡。数十年前、この辺りを散策したころ半壊の石室や掘り出された巨石が数個、ソマ道脇に置いてあった。今は昔、何もない古代の空間にひらひらと落ち葉が舞うばかりだ。
 由良川沿いの平地から山を仰げば、この前方後円墳は美しい姿を天空に映していたことだろう。前方後円墳のまわりに円墳が3基、うち1基は前方後円墳に寄り添うように置かれていて陪塚のように思われるがどうだか。いずれも6~7世紀ころの古墳と思われるが実に生々しく見える。
 大川神社の裏山にも径10メートル余の円墳が数基ある。すべて盗掘抗が口を開いていてなんとも凄惨な景色。古墳群の東端に前方後円墳が1基ある。40メートル余。後円部が削り取られている。一帯の古墳の発掘調査による知見はない。このように大川神社の周りに群集墳が2箇所、それぞれ1基ずつ前方後円墳がある。築造はともに6~7世紀か。
 後者の古墳群の行政区画は今の位田(古墳時代、古代前期の郷名不詳。)に属し「瀬戸田古墳群」という。古代の地形や行政区画は必ずしも現代のそれと一致しないが、「瀬戸田」の名称は、古墳が築かれた尾根と由良川の間に田(福知山盆地東端)が見渡せた証かもしれない。沢筋(瀬戸田川)の上流にため池が在りこの池も赤谷と同時期に築造されたものかもしれない。
 佐陀神社大川大明神の祭神と古墳群との関わり、とりわけ前方後円墳との位置的関係など総合して6、7世紀の上村は今の位田の一部を含め佐太氏の部民が住み、現地管理者を上村古墳群中の前方後円墳に埋葬したのではないだろうか。瀬戸田古墳群の前方後円墳は今の位田の檜前(ヒノクマ)辺りに住んでいた漢氏の部民の現地管理者或いは同族の佐太氏の部民の現地管理者が埋葬された可能性もあるだろう。
 今の位田のうち瀬戸田川の上流、以久田野((京都府農業大学校辺り)の東から御手槻神社辺り(綾部市水道局在)までの区域は秦氏の部民の居住地だったと私は推測する。同地の産土は「氏政(ウジマサ)神社」は京都の太秦(ウズマサ)に通じ、いつの時代かに秦氏の本拠から勧請したとよむことができるだろう。

 位田に寄り添うように西流する由良川の河道について、戦後の作目の植付け実態や地図などからみて、古代には位田橋の南100~150㍍ほどのところではなかったか。河口までわずかな高低差しかなくしばしば流路を変えた由良川の生育履歴を見るようだ。今のように河道が位田寄りになると、四ツ尾山の北側の岡及び井倉の集落一帯の耕地面積が増す。由良川の吐き出し口である川糸辺りの堤防が切れ、洪水がおこると流路は岡、井の倉集落に迫り、今度は位田の耕地が増加する。古代にはそのようなシーソーゲームが繰り返し起こったことだろう。今も昔も由良川治水の困難さが目に浮かぶ。川糸の堤防が切れ大洪水が発生すると綾部市庁舎の三階辺りまで浸かるといわれる。今なお堤外地の竹林等障害物の除去に躍起となる河川管理者の熱意に敬意を表さねばならない。
 繰り返し言う。由良川の流路が現状のように四ツ尾山から遠ざかり位田寄りになると、岡及び井倉の領分が増加する。その地域こそ和名類聚抄に記録された「文井郷」。一般的にはアヤイ(、、、)郷と読まれているがフミイ(、、、)郷と呼んだのではないだろうか。日本書紀に1か所のみ「アヤ」とルビをうった箇所があり、引きずられたた呼称と思う。文井の井(イ)は「村」の意。そこは渡来氏族である文氏の部民が住まいしたところではなかったか。文氏は漢氏と同族。渡来の時期もほぼ同じで文筆を得意とした。記紀にほとんどその名を残していないが壬申の乱で大功をおさめた文忌寸称麻呂が知られている。文筆需要の減退などから同族の居住地・漢部郷に吸収されるなどして郷名が消えたものか。
 一方、由良川の流路が四つ尾山に近づくと位田の耕地が増え、位田の農業が勢いを得る。位田の東端に鎮座する延喜式内社御手槻(ミテツキ)神社辺りに文井郷を比定することもできるだろう。ミテツキ神社のミテは地形、ツキは韓語の「村」の意を表わしたもの。さらに位田に接する東部地域は「和名抄」に記された吉美(きみ)郷。郷中にわが国屈指の規模を誇る聖塚(多田町)やその造営年すら不明の古刹仏南寺(里町)が所在する。同郷について吉美は「(きみ)」の当て字。秦氏(秦公)の支配地の履歴を滲ませる。聖塚は秦氏の現地管理者の奥津城ではないだろうか。秦氏は雄略期に「公」の生を与えられており、八色の姓施行後も「公=吉美」の歴史的地名は変えず地域名として残されたのだろう。仏南寺は楞厳寺とともに現存する何鹿郡最古の寺かもしれない。
 文井郷は由良川を挟み、今の位田と岡、井倉を含む一帯の地域ではないかと私は思う。度重なる洪水や流路の付け替えなどによって由良川左岸の岡、井倉は同族の漢部郷に吸収され、同様に右岸の御手槻(ミテツキ)神社辺りは秦氏の部に吸収され、文井郷は霧散したものか。いま岡、井倉を歩くと、私たちが忘れつつある美しい農家集落や井路の水音が遠い昔と重なって懐かしい。

 さて、クリムラと佐太氏、漢氏など渡来人との関係如何。クリムラは栗村井関から取水し、井路を通じ位田から私市などの田畑を潤す。しかしその起源すら明らかではない。市内のため池にも赤谷池(上村、以久田野に同名のため池在)のような池がいくつかある。井関やため池の井路などにも古墳時代に築かれ、爾来千数百年の時を経て為政者によって井関や井路の改修が行われたにせよその原型をとどめ、いまなお現役で使用されているものもあるだろう。
 クリムラの版図は大体、クリムラ井関の灌漑区域と一致する。立村の起源は、井関の築堤と相互に関係があるとみなければなるまい。
 また井関の流路は由良川の河道変化によって当然、変化する。クリムラ井関は築造当初は現在位置より下流にあったと考えられる。また時代によって集落の領分(知行地)が変れば農事に関する慣行が集落間に生まれることもまた事実である。クリムラ井堰の取水路の先端部は「位田」を通過する。ところが藩政期には位田は山家藩谷氏が知行し、綾部藩のそれではなかった。しかし用水の受益地が位田の下流、クリムラであったにせよ、幕府及び他藩をもってしても、その起源があきらかでなく灌漑等に通水中の水路等につき改修等を含む利水を拒否することができなかったしきたりがいまでも日本には継承されている。「慣行水利権」と称される利権で国家権力をもってしても理屈なしには崩せなかった最強の利権といえるだろう。それが崩壊すると稲作の存続が難しくなり環境破壊が生じると言われる。クリムラ井堰はいわばその利権によって今日まで上川等の井路や溝川(排水路)の位置が開拓当時とあまり変わらず稲作や住民生活を支えてきたように思われる。
秦人と何鹿郡
 綾部市東山町山家(旧広瀬町山家)に延喜式内社・伊也(いや)神社が鎮座する。同延喜式神名帳には他の神社と同じように祭神の記述はない。社伝によると、大日靈賣尊(おおひるめむちのみこと)、月夜見尊、素盞嗚尊の三神と伝えている。
 一方、延喜式内社神名帳考証(出口延経著、国学者・伊勢神宮権禰宜)によると、旧事記を引き五十猛と同神の大屋彦命としている。日本書紀によると五十猛は大八島国(日本)に植林をもたらした神。新羅出自の渡来神とされる。
 さらに、五十猛の読みについて、同神の上陸地の伝がある石見(島根県)では「イソタケル」、木の国紀伊(和歌山県)では「イタケル」と読み、伊予(伊予・愛媛県喜多郡内子町五十崎)では「五十」を「イカ」と読み発音が定まらない。丹波では「五十猛」を「イカル」と呼んだのではないかと思ってもみる。さらに、何鹿郡内には式内社・島萬(しままの)神社が所在し、神名帳考証では五十猛神を祭神とする。この神こそ森林に覆われ、高燥で桑の栽培に適した当地に渡来した秦人の祖神であっただろう。同神は何鹿郡(イカルガ郡)の呼称としても定着したと思われる。
 栗村一帯及びその周辺に渡来の秦氏、漢氏、文氏、高麗氏などが住みなしたと思われる。もっともそのすべてが渡来系氏族ではなく、特に農業に従事する部民の中にはむろん日本人も含まれ現地管理者の下、住みなしていただろう。京畿の姓氏の系譜を著した新選姓氏禄によるとその3割は渡来系(諸蕃)氏族。みな今日の日本人である。
 さて、クリムラの語源について、栗がよく採れるのでクリムラではあまり意味がなさそうである。 クリムラは、「高麗村」の朝鮮語golyeomura(クリャームラ)が転じてクリムラと通称されるようになったのではないだろうか。
 クリムラにおける稲作の開始時期及び高麗氏など渡来人とクリムラ井堰及び井路の築造時期の相関について、文献にそれを窺わせる知見はない。しかし、福岡の那珂川流域の裂田溝(井堰と用水路がセット)の築造時期が弥生に遡る可能性が指摘されまた土木技術の水準(利水施設の築造につき河川の高低差を割出し、施工仕様を書き出す能力)から推し倭人がそれを保有していたとする保証はない。弥生時代において、朝鮮半島南部と日本海沿岸地方に極東人というべき民族の共存地帯があった可能性も否定できない。あるいは古墳時代に高麗氏がクリムラ井関やため池を築造し、井路を巡らせたと考えることもでき、その功績を「クリムラ」に刻んだものか。
 高麗氏の居住地はあきらかではないが、佐太氏に相前後して渡来し、土地改良を行い受益地を拡大するなど農業基盤を整備し、開拓地には現地管理者を置き、それらの功労に応じて上村古墳群や瀬戸田古墳群或いは以久田野古墳群中のいずれかの前方後円墳に祀られたのではないだろうか。その墳墓こそクリムラ井関の喉仏に当たる瀬戸田の前方後円墳と思いたい。上村古墳群或いは以久田野の大谷辺りに墳墓が築かれた可能性もあるだろう。-令和2年11月-