近畿風雲抄
奈良
文忌寸称麻呂−宇陀市榛原区内牧−
大神は 神にしませば 赤駒の  腹ばう田居を 都と成しつ
                   <万葉集 大伴卿>
文称麻呂墓 古代における本邦最大の内乱である壬申の乱を制して飛鳥に凱旋した大海人皇子は、天武元(672)年9月、飛鳥浄御原宮に入り即位、天武天皇となる。近江遷都から5年。飛鳥は荒廃し、そこは赤駒の腹ばう田居と化していた。その飛鳥で再び、都の建設がはじまった。古代史上、天皇が最も輝いた時代だった。
 飛鳥びとには神にもうつったであろう天皇の世紀に、大伴卿は、「大神は神にしませば赤駒の腹ばう田居を都と成しつ」と詠う。
 壬申の乱に大功を残したひとりの将軍が宇陀の山中こ眠る(写真)。大海人皇子を導いて吉野から美濃国不破郡野上の本営に向かったであろう文称麻呂(ふみのねまろ)がその人。ささやかな墓所は文称麻呂の生きた時代の諸相をうつして余りある。動かぬ証拠は、なりよりも貴重なものだ。
 天保2年9月(1831)、墓所から農夫が一枚の銅版に印刻された墓誌を掘り出した。墓誌に「壬申年将軍左衛士府督正四位上文称麻呂忌寸慶雲四年歳次丁末九月廿一日卆」(写真右下。現地案内板から引用)とある。墓誌から文称麻呂は「忌寸」のカバネを与えられ、「壬申年将軍」任命され、最終の官位は「衛士府督」、位は「正四位上」、卆年は「慶雲四年歳次丁末九月廿一日卆」(707年)である。日本書紀に、「(大海人皇子は)…壬申6月甲申東国に入りたまふ、事急にして従ふものなし、皇后・皇子以下、書首根麻呂(ふみのおびとねまろ)の類二十有余人なり、七月辛卯根麻呂等を遣わし、数万の兵を率いて不破より出で、直ちに近江に入る。」としるされた書首根麻呂はすなわち文称麻呂である。天武13年(684年)、八色の姓の制が施行され、翌14年6月、11氏に忌寸の賜姓が行われた。忌寸(今来に通ずるものか)姓はこのとき主に帰化人の功労者に与えられたものであろう。
 大海人皇子軍の手勢は少なく、根麻呂等を遣わして同調者を誘い、呼応して挙兵した大伴吹負が箸墓の戦で正規軍である大友軍を破り大和を平定すると、大海人軍は活気づき、根麻呂将軍が大軍を率い近江の安河、次に瀬田川に迫り、瀬田橋を突破すると大友軍は総崩れとなり、乱の大勢は決した。意気洋々とした根麻呂将軍が想像できよう。続日本紀に、功成り名を遂げた書首居麻呂(文忌寸称麻呂)は食封100戸を賜り、卆後、従四位下から正四位上の位階が贈られたとしるされている。墓誌に「贈」正四位上と書かれていないのは、今日の叙位後の風と似たものであろう。死者への礼であったのものか。正史は称麻呂の最終官位である衛士府督の任命を伝えていないがこれは欠文であろう。
 太安萬侶や小治田安萬侶の墓誌埋納より約20年早く、文忌寸称麻呂は逝き墓誌を残した。墓所から重畳をなす宇陀の山々を眺め、在りし日の称麻呂を偲ぶのもよいだろう。

西琳寺 書氏は応神天皇16年2月に百済から来朝した博士王仁の裔である。古事記や古語拾遺にそれぞれ「文首」、「河内文首」としるされる帰化人氏族。西文氏(かわちのふみし)として栄え、羽曳野市古市の西琳寺(写真左)が同氏の氏寺である。文称麻呂らが中心となって東に塔、西に金堂を置く法起寺式の伽藍を整備。天武7(679)年ころ、寺域は東西1町、南北1.5町もあったという。境内に巨大な五重塔の心礎がのこっている。−平成20年8月−
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