奈良
法起寺の塔−生駒郡斑鳩町岡本−
法起寺の塔
 斑鳩の法輪寺の東方、数百メートルのところに法起寺がある。寺は岡本という集落にある。後方に緑濃い丘阜を背負い、寺の南側に緩やかな傾斜地が開け、起耕のはじまった田園でケリが甲高い鳴声をあげトラクターの後を追う。その向こうに三重塔がみえる。寺近くに法隆寺、中宮寺などがあり、斑鳩の蒼きゅうにも古色を感じさせる。寺は飛鳥時代の終焉を告げるモニュメント。法起寺の三重塔は、造立年の記録が残る日本最古の塔である。またその細部の検証から造立年代がわかっていない法隆寺や法輪寺の塔の造立年を示唆し、飛鳥という時代の潮流を湛えて立っている。塔は上宮王家の滅亡のことなどを連想させる。 
 法起寺の草創について、鎌倉時代に法隆寺の学僧顕眞によって編まれた「太子傳私記」は塔に露盤銘があったことを伝えている。同私記によれば露盤銘から法起寺は、天武天皇の13年から22年を費やして成ったものとみられる。 露盤銘は上宮太子の臨崩の時、山代兄王山(岡)本宮の殿宇を寺とし、弥勒像一体を造り金堂に安置したとしるす。その伽藍配置は法起寺式といわれる特異なもの。法隆寺の伽藍は中門と講堂を結ぶ線の右に金堂、左に五重塔が配置されている。これに対し、法起寺の配置は金堂と三重塔の位置が反対。 法起寺塔の軒周りの斗きょうは雲斗雲肘木。法隆寺、法輪寺と同一の手法であるが、隅斗きょうに鬼斗が用いてある。法起寺塔の隅の仕舞は法隆寺、法輪寺のそれより進化しており、法隆寺の草創が法起寺より古いことがわかる。
 法起寺の塔婆は、法隆寺の五重塔との関係において、画期的な事実が指摘されている。初層の寸法は法隆寺の初層と同じ。二層目は法隆寺塔の三層と同寸。この対比から三層目は法隆寺の五層と同じである。 しかし、この塔の柱間割につき、三層のみが三間で、法隆寺塔の二間と異なる。この原因について、法起寺塔の改造説を唱える者もいる。ともあれ法起寺塔の平面寸法が法隆寺塔の一層おきに一致するという事実は、この塔が法隆寺の創建とあまり違わない時期に成ったものであるということ、露盤銘にみる聖徳太子の遺訓によって現れたという草創の経緯を裏付けるものであることなど様々の事実が羅列でき、さほどに皇室の仏教への傾倒を大和のはずれで主張した太子の思いを感じずにはおられない。法起寺の露盤は天仁年間には相輪とともに下ろされ、法隆寺の倉にあったと「法隆寺別當記」は伝えるのであるが、鋳潰されたともいわれ所在がわからなくなっている。−平成19年4月−