和歌山
隅田八幡神社の人物画像鏡−橋本市垂井−
 癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長
 寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
隅田八幡神社の人物画像鏡 紀ノ川の右岸、段丘の斜面に隅田八幡神社(写真下)が鎮座する。紀ノ川の上流、吉野川沿いの道を下り、奈良県の五條を過ぎ真土丘を越え紀州(和歌山県)に入ると、吉野川は紀ノ川と名称が変わり、次第に視界が開ける。
 隅田八幡神社は大和盆地の南側出入口に当たり、水運、陸路の要衝に当たるところにある。同社は48文字が鋳出された人物画像鏡を所有する社として知られている(写真(上)は隅田八幡神社境内に展示されているレプリカ)。
 銘文の文意は、‘男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が(男弟王の)長寿を念じてこの鏡を作った’と読むことには異論は少なかろう。しかし従来、鏡の贈り主である斯麻(王)につきその実在を証拠立てる資料が日本書紀に限られ、「斯麻」実存の立証作業が極めてぞんざいに扱われてきた。日本書紀に対する不信感がその研究に影響していることは否めない。しかし、近年、はからずも韓国において武寧王陵から墓誌が発見され、銘文から武寧王が「斯麻」であること、武寧王の没年が明らかなことから鏡の製作年(癸未年)は西暦503年に特定される根拠になった。それに伴い、男弟王等の比定にも道がひらけたといえる。
 人物画像鏡の銘文はその読み方、人名、地名に諸説あって定まらない。癸未(503)年に百済の武寧王(斯麻)が継体天皇(男弟王)に贈った鏡ではないかと思ってもみる。
 日本書紀は、武寧王は日本で生まれ、嶋君(斯麻王)と称していたとしるす。しかし、韓国の正史にその記述がなく日本書紀の記録は韓国の人々には受け入れ難いものだった。しかし、30数年前(1971年)、韓国の広州市武寧王陵から墓誌石が発見され状況は一変した。墓誌の記述が日本書紀のそれと符合し、書記の正確性が確認されたのである。
 武寧王は東城王の後を継いで西暦502年に即位しているから、即位に相前後して倭京の工人に鏡を発注したものであろう。壮年になるまで倭国で育った王にとって倭国は懐かしいところであったのだろう。鏡は百済国の王位についた武寧王の倭国王への謝礼の気持ちもあったであろう。開中費直及び今州利は鏡を製作した工人と私は思う。開中費直は河内直と解されるから、河内に息がかりの工人集団が住みつき製作に当たっていたと推される。人物画像鏡が倣製鏡である点とも矛盾しない。
 男弟王とみられる継体天皇の即位は西暦507年(日本書紀)であり、かつ永く大和入りしなかったにもかかわらず癸未年に意柴沙加宮(忍坂宮)に在るという銘文の記述は、継体天皇は大和入りして直ちに皇位についたのではなく、数年間の醸成期があったということであろうか。
 それにしても鏡はなぜ隅田八幡神社に伝承されたのか。鏡は河内で製作され、大和に届かないまま意柴沙加宮への搬送経路上にあった紀州に留め置かれ、当地の豪族に伝承されたと考えられなくもない。武烈天皇に子がなく、応神、仁徳以来の河内王朝の皇統が絶えた時期であるから大和内外に不穏な雰囲気が漂っていたはずである。大和に鏡を搬入できない何らかの事情が存在したのであろう。
 鏡は県外に流出して久しいという。−平成20年3月−