九州絶佳選
佐賀
武寧王の島(加唐島)−唐津市鎮西町−

 呼子の北西、3.5キロの海上に加唐島(かからじま)という島がある。呼子から定期船「かから丸」(写真左(に乗船して15分ほどで島の南部に開けた加唐港に着く。南北に細長く、周囲15キロメートルほどの島は半農

半漁の島。231人の島民が暮らす。大方、漁港周りに住家が密集し、島の北部の住家は7戸ほど。イカ釣り船がせわしなく出入りする加唐港の背後は椿が茂る丘陵を成し、四周は断崖に囲まれた島。初秋の風が吹き始めるころ、島特産の椿の実の収穫が始まっている。
 島の最北端、カリオ岬はユウスゲの群生地。7月には可憐な花が岬いっぱいに広がり、カリオ灯台が黄色に染まる。崖下の細長く突き出た鼻はエヌオノ鼻。佐賀県最北端の鼻である。北方に壱岐、晴れた日には小呂ノ島、志賀島を望むことができる。
 島の東海岸にある「ろうぎ(櫓木)観音」は、島の断崖美の極点であろう。さめざめとした奇勝の真っ只中で、観音様が祈りを捧げる姿して白い光を放っておられる。自然が織り成す雄大、万丈の景観は、時を消し厳粛な空間であり続けている。


岬遊歩道

エヌオノ鼻

カリオ灯台

椿の収穫

ろうぎ観音

松島を望む
 加唐島は、百済第25代国王・武寧王の生誕地。「・・・百済の蓋鹵王の王弟昆支が日本に遣わされたとき、筑紫(九州)の各羅島で妃が子を産んだ。その子は嶋君と名付けられた。・・・百済人は、この嶋を主嶋と呼んでいる。・・・」と、日本書紀(雄略天皇5年(西暦461年)の条)に記録されている。各羅島は加唐島、嶋君は後の武寧王。武寧王はオビヤ浦で生まれ、産湯を使ったとする伝承が加唐島に残っている。ところが、韓国の三国史記などの歴史書に武寧王が嶋君(斯麻王)と称したことや日本で生まれたとする記録がないなど、韓国の人々には書紀の記録は受け入れ難いものだった。しかし、三十数年前(1971年)、韓国の広州市武寧王陵から墓誌石が発見され、解明が進むうちに状況は一変した。墓誌の記述から日本書紀の記述の正確性が裏付けられ、加えて王棺は韓国に産しない高野槙で造られたものだった。加唐島は、百済、対馬、壱岐、筑紫(九州)の最短コース。古代における日韓の親密な交流や海上交通ルート、雄略紀の実年代等々も武寧王陵の墓誌石や木棺から明確になってきた。武寧王は、阿直岐(あちき)や王仁(わに)博士を日本に派遣して千字文や論語を伝えるなど日韓史に大きな足跡を残した大王だった。(伝王仁博士墓が大阪府枚方市に所在する。同市には継体天皇の伝樟葉宮や7世紀に唐・新羅の連合軍に敗退し、日本に亡命した百済王氏を遠祖とする陸奥守百済王敬福の氏寺百済寺の遺址がある。)
 平成14年1月には、日韓の学識経験者が参加し、「百済武寧王生誕海峡地国際シンポジウム」が地元鎮西町で開催された。平成16年6月には、「武寧王1500年ぶり 父(昆支)と巡り会うin加唐島」が開催されるなど、加唐島を架橋とした日韓の交流が進展している。
 オビヤ浦に下り立つと、昆支が嶋君母子を見送ったであろう情景が目に浮かぶようである。海は青く澄みきっている。生誕地と伝えられる海蝕洞や枯れることのない産湯の井戸が遥か千数百年の彼方に私たちをいざなう。オビヤ浦は険しい崖下にある。いま遊歩道の整備が進められており、まもなく難なくオビヤ浦に下り立つことができるであろう。
 本年6月、第4回武寧王生誕祭が加唐島のオビヤ浦で開催された。武寧王が眠る高野槙の記念植樹も島で行われた。加唐島の「斯麻王会」が中心となり、武寧王生誕記念碑の建立活動も推進されている。島を訪問される向きには、鎮西町の名護屋城址の近くに鎮西町観光協会があるので尋ねられるとよい。−平成17年9月−

オビヤ浦

オビヤ浦
(斯麻王生誕地)