天女の塔(薬師寺)−奈良市西の京町− |
奈良の西ノ京に薬師寺という法相宗三大本山のひとつがある。始め、寺は明日香の岡本にあって持統天皇縁の寺であった。和銅3(710)年、平城遷都にともなって、明日香京から新京に移された。南都7大寺のひとつに数えられる浄刹である。
フェノロサをして鋳銅仏として世界無二と嘆賞せしめた本尊薬師三尊はいまもその輝きを失ってはいない。中尊の台座に占める四神と葡萄唐草模様、邪鬼の浮彫は遥かなるユーラシアの華を伝えている。遠くサンチー大塔に発っするスツーパは、裳腰を付し、六重塔にみえる。軒は伸びるほどにすぼまり、上下層塔の軒を結ぶ傾斜は11度。相輪は塔身の半分にも達し、天上で天女が舞う(写真上)。なんとも珍しく、塔はよいバランスで立っている。
創建以来、1300年の歳月の経過は、この寺の姿を著しく変貌させた。当時の建築物としては、東塔が残るのみであるが、近年、西塔などの堂塔伽藍が復興した。金堂、講堂が相前後し、東西に両塔が対立し、創建当時の伽藍の偉容を概観できるようになった。
春浅い日、境内の讃良椿が僅かにほころび始めた。 |
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東塔 |
東塔の軒周り |
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御跡造る 石の響きは 天に到り 地さえ動れ 父母が為に 諸人の為に |
三十余り 二の相 八十種と 具れる人の 踏みし跡所 希にもあるかも |
大御跡を 観に来る人の 古方 千代の罪さへ 滅ぶとぞ云う 除くとぞ聞 |
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仏足歌碑(上部、パンフレットから引用) |
薬師寺の大講堂に銘文のある仏足石(高さ69cm)と仏足歌碑(高さ194cm。写真左)がある。もともと、両者は西塔跡南方の仏足堂内に祀られ、仏足石の後方に仏足歌碑が立っていた。同寺の西塔など伽藍復興の機会に講堂内に移されたのだろう。仏足石はその側面に彫り出された銘から、文室真人智努(ちぬ)(天武天皇孫)が亡夫人茨田(まんだ)郡主 法名良式の供養に造立したものである。造立年は天平勝宝5(753)年7月15日である。作業は前年の天平勝宝4年9月7日から始まっており、落慶に1年以上を要している。仏足図が仏足石の上面に彫りだされている。それは、唐の王玄策が中天竺の仏跡から転写し唐の普光寺にあったもの(第一本)を、入唐の使人黄文本実が写し帰り(第二本)、奈良の禅院(道昭創立)に保管されていたものを転写(第三本)し、画師越田安万が石に写したものだ。中天竺の仏足図から数えて第四本である。仏足石の側面に、仏足の由来と奇跡が西域伝や観仏三昧経の一節を引き刻まれている。こちらは銘から推して三国真人淨足(継体天皇の皇子椀王の後裔)が引き写したものであろう。石工は判読不可。仏足石は不整形な自然石で埃をかぶったような褐色である。仏足図が描かれた石の表面は研摩されているが下部は造立当初から土中にあり、凹凸の補正を必要としなかったのであろう。いくつかの陥没穴や掻き毟ったような傷が相当広範囲にみえる。
さて、仏足石の後方に立つ仏足歌碑は粘板岩で、その周辺部が磨耗、劣化し板状の摂理面が露出している(写真参照)。石面を上下段に別け、総数21首の仏足歌が刻まれている。歌は5・7・5・7・7・7で歌われ、末尾の6句目が5句目の歌いかえになっており歌碑では小文字であらわされている。歌は仏足歌体といわれるもので、仏足石と一緒に遺存するわが国最古のものだ。後半部に呵嘖生死の4首をおき、前半部の17首は仏足石の製作風景(標記の歌1首目)から始まり順次、その功徳や滅罪の作用、釈迦への思慕など歌われている。歌中の2首目「三十余り二の相八十種と・・・」(標記の2首目)の句が後拾遺和歌集第20巻に採られ、光明皇后が山階寺(興福寺)にある仏跡に書き付けたものとして出ており、歌碑は興福寺にあった仏足石に附置されていたと考える者がいる。歌碑の来歴につき、江戸時代に奈良近郊の藪の中の小橋として用いられていたが、歌中に薬師の字がみえたところから薬師寺に移されたと述べる者もいる。古来、仏足石や歌碑の由来について論議があり、契沖や眞淵などもそれぞれ所説を述べている。歌碑の造立が仏足石の制作年代より下がるものであるにせよ、仏足石と仏足歌碑は創から薬師寺にあったものかどうか、疑問なしとしないというわけである。しかし、私は、歌碑はやはり薬師寺の本尊との関係や第1首目の詠歌のイメージから創から仏足石も仏足歌碑も薬師寺にあったものと思いたい。
仏足石の部材について、二上山辺りから産出するサヌカイトと推することができないものか。室戸の最御崎寺の境内に、石で叩くと澄んだ金属音がする鐘石という不思議な石がある。長年月にわたり叩かれ続けるうちに石の表面に沢山の陥没穴ができている。その形状は薬師寺の仏足石に似たところもある。サヌカイトは非常に硬く、叩くと石中で共鳴をおこし、よい音が出る。そうすると、仏足図等の製作に1年以上かかったとしても不思議ではないし、仏足図の製作時にノミの打撃音が辺りに響きわたったことであろう。仏足歌の表現は多少の誇張があるにせよ、実景であったという見方もできる。仏足石は踏むものだけではなく、堅木でできた木槌様のもので叩いて拝む作法もあったのではないか。仏足石の脇を叩くときっと澄んだよい音がするに違いないと思うのだが・・・。仏足石の製作が始まった天平勝宝4年9月、東大寺の盧舎那仏の開眼供養が行われている。翌天平勝宝5(753)年6月には鑑真和上が来朝している。そうした奈良の仏教的雰囲気が最高潮に達した頃、文室真人智努は仏足石の造立を発願したのである。 −平成20年− |
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参考 : 法隆寺の五重塔 法起寺の塔 法輪寺の塔 百済寺の塔 海住山寺の塔 瑠璃光寺五重塔
天女の塔(薬師寺) |