瑠璃光寺の五重塔−山口市香山町−
山口・瑠璃光寺の五重塔 中国地方の塔婆は、尾道・浄土寺の多宝塔や生口島の向上寺三重塔、福山の明王院五重塔など南北朝から室町期にかけ建立されたものが比較的多く残っている。それらの多くが日本の仏教建築の白眉と称せられるほど美しく、また土地の風土によくなじんでいてこの地方の文化の厚みを感じさせもする。
 山口・瑠璃光寺の五重塔もまた美しい塔婆である。高さ30メートル余のこの塔婆は、法隆寺や醍醐寺にもない桧皮の部材を選択したことによって、反りのある軽やかな屋根と軒周りの組み手の装飾に厚味がまし、見るものに異次元に遊ぶ感動を与えるのである。
 塔は大内義弘の菩提を弔うため、義弘の弟盛見が建立。嘉永2(1442)年に完成したもの。
 大内氏の出自は百済の琳聖太子。はじめ周防大内村に住み力を蓄え、南北朝時代に守護大名として名を成すようになったようである。 早くから高麗や李朝朝鮮と交易し、明との勘合貿易で財力を蓄え、いわゆる大内文化を築く一方、明徳3(1392)年には56年間続いた南北朝の合一を義弘が主導するなど政治的な動きも得意としたところ。しかし、大内氏一族は戦を得意としなかったようである。義弘をはじめ盛見、教弘、持世、義隆など戦陣その他で落命した者が実に多いのである。五重塔婆もまた、大内一族の光りと影の詩であるのだろう。−平成18年10月−

古塔の思い出
 奈良の郊外に薬師寺という古寺がある。境内のすぐ近くを近鉄橿原線が走っていて西ノ京という駅がある。駅に降り寺と反対の方角に電車道に沿って数百メートルほど行くと大池というかんがい用のため池がある。金魚の養殖が盛んなところで雨上がりの水路に色鯉が泳いでいたりして、ずいぶんのんびりとした田園の風情があった。この大池の土手越しに天平2(730)年の造塔と伝えられる薬師寺の三重塔が見え、奈良らしい寂とした風景があった。このころ薬師寺の塔は東塔ひとつで、西塔は礎石を残すのみであった。いま訪れると、西ノ京あたりの風景もだいぶかわってしまったが、昭和40年ころ、西ノ京に寓居すること3年余、朝な夕なに薬師寺の塔や唐招提寺の鐘の音を聞いて過ごすことができたのは何かの間違いではなかったと思うほどのんびりとした古都のよい風景が残っていた。
 仏教がインドからパミール、天山を越え中国に入り、その潮流が朝鮮半島から日本に伝来するまでにすでに千年の歳月を要している。仏教の伝来は経典や伽藍、諸仏の像とともに、おびただしい仏具をもたらした。それは大宝律令の施行など日本の諸法令の手本となった唐令の転入よりよほど早い時期に伝わったのである。仏教伝来後、敏達天皇の14年、崇仏派の蘇我馬子によって飛鳥の大野丘に起立された塔が廃仏派の物部守屋らによって焼かれ消亡したことが日本書記にしるされているにせよ、仏教は次第に日本の風土になじんでゆく。インドから吹きはじめた仏教の風は、極東の地を巻き込んで原初のものとは似ても似つかない仏教建築を生むのである。三重塔や五重塔などもそのひとつ。四方に流れる屋根の稜線と軒の反りの美しさは、中国の建築様式を基本としながら日本の山野に溶け込ませる知恵から生じたものだ。軒の先端が大きく反りあがる中国様式そのままであれば瑠璃光寺の五重塔もこれほど日本の風土に馴染むこともなかったであろう。組物や虹梁によって張り出した軒先は、西洋建築にない中国建築の美しさを代表する建築様式。しかしその技術が日本に伝播し熟成するうちに、下からみえる化粧垂木の勾配はゆるくしかし軒先の出を深くしてはねあげる、野小屋(のごや)と桔木(はねぎ)の技術をうみだしたのである。
 塔はもともとインドのサンスクリット語でスツウパ、釈迦族のパアリー語でトーバといった。仏教が中国に伝わるとそれらの単語が「卒塔婆」、「塔婆」と音訳された。それは仏陀の遺骸の遺骨いわゆる仏舎利をおさめた墳墓をさす言葉である。仏陀は生前から崇拝の対象であったが、仏陀入滅後、仏教徒は仏舎利を崇拝の対象として仏舎利が納められた墳墓を仰讃することを願ったのである。具体には、仏舎利が収められた塔婆を寺域内に建て、仰讃したのである。
 塔婆は仏教の伝来とともに日本に伝わり、塔婆など伽藍の配置形式の違いによって法隆寺式、四天王寺式、法起寺式などの様式がある。興福寺式や大安寺式のように塔婆を回廊の外に配置する伽藍様式も古い時代から存在する。塔婆の荘厳さ、優美さゆえにそれがしだいに回廊の外に建てられるようになる。さらに時代を経て、塔婆は装飾的な建造物として境内の適所に営まれるようにもなるのである。
 塔婆は仏舎利を蔵する仏陀の供養塔であるから、塔婆に仏舎利が存しなければならない。しかし、仏舎利の量は限られていて、世界の仏教国のごまんの需要を到底充たすものではない。我国には古くから身舎利、法舎利という考え方があって、経典を蔵するものを身舎利、水晶等の玉類を蔵するものを法舎利といって心礎の中や相輪などにそれらを収め仏舎利と同様にあつかった。諸国に造立された国分寺の仏舎利は身舎利であって、最勝王経が収められていたこ
三重塔(向上寺_生口島)
三重塔(向上寺_生口島)
三重塔(西国寺_尾道)
三重塔(西国寺_尾道)
とはよく知られている。
 日本の塔婆には多層塔のほかタイプの違う多宝塔がある。円形平面の塔身の下部に裳階を付けた宝塔であって、仏陀のなりかわりである大日如来の三昧耶形とされ、その形状はインドの原始塔婆にみられる塔身部分を強調した塔婆である。顕教の多層塔を舎利塔、多宝塔を大日塔と称える場合がある。尾道の浄土寺や広島の三滝寺の多宝塔は実に堂塔伽藍や景観にもマッチしていて特異な優美さを湛え、美しいものである。厳島神社には15、6世紀に建てられた多層塔と多宝塔が揃っていて浮殿とともに安芸の宮島のシンボルである。多宝塔は多層塔より時代を後にするもので、空海、最澄等によってもたらされた密教(真言秘密教の略)にともなって伝来した建築様式である。多宝塔の白眉といわれる石山寺のそれなども、寺の創建は7世紀中葉と古いが、同寺ははじめ東大寺に属する寺であったので、多宝塔は同寺が真言宗に改めて後、建築されたものであることがわかるのである。
多宝塔(浄土寺_尾道)
多宝塔(浄土寺_尾道)

多宝塔(三滝寺_広島)
 多層塔は、最初、飛鳥や南都六宗など仏教伝来地の顕教寺院に建てられた。飛鳥、奈良に多くの多層塔が存在するのもそのような事情を反映したものである。わずか16メートル余の室生寺の五重塔(天平時代)などは山中の宝石。八坂の塔百済寺の塔もよい。市街或いは田園に古色を滲ませる塔である。
 山陽の瀬戸田(井口島)の向山寺三重塔や山口の瑠璃光寺五重塔西国寺三重塔(写真左下)はその優美、華麗さにおいて多層塔婆の白眉といえるであろう。
 それにしてもインドの墳墓から発展した仏陀の供養塔が塔婆の原型となって我国に伝わると、塔婆はほとんど原型をとどめないほどその形状は変化した。
 インドのサンチ−の大塔は紀元前3世紀の造立といわれ、インド最古の塔とされている。仏陀は沙羅双樹の下で紀元前5世紀に入滅したといわれるからサンチ−の大塔と2世紀の開きがあるものの塔婆の初期の形状を知るうえでよい仏塔である。
 サンチ−の大塔の塔形は、低い基壇の上に墳墓を示す半球形の土まんじゅう形の塔身をのせ、頂上に相輪が立ててある。相輪は四角い平頭といわれる台に傘形が立ててある。傘形は尊者に対する儀礼の意味があるという。この塔婆の形式が中央アジアを経て紀元前後に中国に入ると、半球形の塔身部分は退化し、基盤部分を多層化し、長く立派な相輪が発達し、塔婆の崇高性が高められてゆく。中国では塔婆の部材は、石や木などで造られ多様であった。朝鮮半島を経て塔婆が仏教とともに日本に伝来すると、木材を得てインドの初期塔婆とはまったく形状を異にするようになり、その優美さを競うようになるのである。

 わが国における造寺の始めが元興寺であることは、元興寺縁起にひく同寺の露盤記によって明らかであろう。露盤記は百済の聖明王の上啓によって蘇我馬子を領として造寺の功が成されたとしるす。日本書紀に元興寺創建の記事はなく推古天皇4年造立の法興寺が造寺の始めとされている。そうすると、法興寺を元興寺とみても疑いはないであろう。
 元興寺の伽藍や塔がどのような姿であったかは寺の消亡によって辿りようもないが、元興寺の創建に百済の釈令法師や恵聡法師をはじめとして建築から瓦の師まで、ことごとく渡来人の関与によって造立されたことを思うと、塔の和様への遷移になお多くの時日を要したことであろう。−平成18年11月−
薬師寺(奈良・西ノ京、七条大池から)
法起寺三重塔(奈良・斑鳩)
国分寺(岡山)