奈良
百済寺の塔−広陵町百済−
百済野くだらのの はぎの古枝に 春待つと 居りし鶯 鳴きにけるかも 〈万葉集 山部赤人〉        
 舒明天皇の11(639)年、・・・秋7月、詔して曰く、今年、大宮及び大寺を造作らむ。側ち百済川の側を以て宮處と為す。是を以て、西の民は宮を造り、東の民は寺を造る。・・・と日本書紀はしるす。宮は百済宮と称せられ、同宮で天皇は崩御。宮北で百済の大殯といわれる盛大な殯が催され、誅(しのびごと。弔辞)を述べるのは弱冠16歳の開別皇子(ひらかすわけのみこ)だった。後の中大兄皇子である。一方,寺は飛鳥の法興寺に対抗する天皇の発意であったものか。造寺は皇后であった皇極天皇に引継がれた。
 その百済の故地こそ広陵町に所在する百済である。こんもりとした樹林に三重塔(写真左)が見え隠れする。この塔婆がなければ、百済は和州のありふれた田園であったに違いない。
 百済はまた、古代における最大の内乱となった壬申の乱において、大海人皇子(後の天武天皇。舒明天皇皇子)側について飛鳥に蜂起し、大海人軍の将軍に任命された大伴連吹負の邸宅があったところだ。日本書紀は、飛鳥の留守司高坂王と徴兵にきていた穂積臣百足を攻めるに際し吹負は・・・兵を百済の家に繕ひて南門より出ず。・・・としるしている。この百済の邸宅から吹負は出陣したのだ。箸墓の戦において近江軍を撃破した吹負は、大和を平定し、大海人軍の勝利の功労者となったのであった。
 百済辺りは古くから大和川の船運が拓けたところだ。また、飛鳥から河内に通じる幹道が百済の南方に通じる要地であった。ヤマト王権の宮殿が建ち、官の大寺が大いに栄え、大伴連吹負の邸宅が甍を連ねていたことであろう。書紀に説かれた宮殿址など、今後驚くような発見も期待できるだろう。
 百済寺は百済川の東の民によって築かれたと日本書紀はしるすのだが、三大実録や大安寺伽藍縁起流記資材帳によれば、同寺は聖徳太子が平群の熊凝精舎を当地に建造し、天武天皇の代に高市郡に移されて大官大寺になったと伝えている。創立経緯が確定しないが、大官大寺の元寺である。さらに、大官大寺は平城遷都によって藤原京から平城京に移され大安寺となったのであるから、大安寺の法灯は百済寺にある。翻って、百済寺のその後は、連綿と残灯をともし続け、多武峯(神仏分離後寺は廃絶。談山神社が残る)の末寺となって存続したが、明治以降は無住寺となり塔婆1基、荒れるにまかせ崩壊寸前になっていたようである。幸い大正時代に大修理が行われ、その姿をいまにとどめている。
 現存の百済寺塔婆の造立年は明らかではない。組手などの塔の諸元から鎌倉時代(同中期)のものであろうと説かれている。幾度か修理が行われ、当初木瓦葺であったものを瓦葺に改めた(寛政4年修理時)ことや塔婆の九輪宝珠に仏舎利13粒を納めた(延宝3年修理時)ことなど、注目すべき記録が塔の瓦銘や紙片から発見されている。
 標記の赤人の詠歌は、藤原京址を懐かしみ詠んだものとする説が有力である。そこに百済野の故地を見出すとき、この歌の感光も一層増すはずである。百済塔はその境内社の緑陰から見るともっとも美しい姿をみせる。−平成19年7月−

参考 : 法隆寺の五重塔 法起寺の塔 法輪寺の塔 百済寺の塔 海住山寺の塔 瑠璃光寺五重塔  天女の塔(薬師寺)