奈良
新薬師寺本堂−奈良市高畑福井町−
新薬師寺本堂 奈良市の郊外、高畑に新薬師寺という古刹がある。春日山の麓にあって、寺まわりに田畑が見え隠れする情趣豊かなところである。小路を歩けば、坂道にさびた民家の町並みが移ろい、崩れた土塀が私たちを古刹にいざなう。新薬師寺はそのような街の要として天平の甍を今日に伝える寺院だ。創建は諸説あるが、本堂が聖武天皇の病気平癒を願って天平19(747)年3月、光明皇后によって建てられたことは諸資料から争う余地がない。藤原広嗣の内乱、政情不安などから平城を発ち、恭仁京紫香楽宮、難波京と彷徨し、再び天皇が平城に戻ったのは天平17(745)年5月、都を発ってから5年の歳月を経ていた。その2年後、新薬師寺は建てられた。聖武天皇の肉体は苦悩と彷徨のうちに蝕まれ、寺院建築の動機となったのだろう。寺は創立当初、塔や講堂など七堂伽藍が整った寺院であった。西ノ京の薬師寺に対し、都の東に位置する当寺に「新」の字を冠し新薬師寺と称し、あらたな薬師寺という意味が込められたようである。寺はまた香薬師寺と呼ばれた時期もあった。
 今日、新薬師寺の本堂は桁行7間梁間5間、単層の入母屋造り。木割りが頗る雄大、改作されることなく今日まで天平の甍を伝える。聖武天皇が良弁僧正のために建立した東大寺法華堂(三月堂)の創立は天平5(733)年、改作前は5間4面の堂宇であった。新薬師寺の本堂は法華堂のそれを上回る規模である。
 天平時代に花開いた仏教文化は平城京を大伽藍で埋め尽くしたが、現存するものは思ったより少ない。東大寺法華堂(鎌倉期に改築)、法隆寺東院の伝法堂、唐招提寺の金堂・西金堂、栄山寺の八角堂と新薬師寺の本堂くらいのものであろう。他はことごとく消滅した。新薬師寺の本堂が春日山の麓で完成した姿で立っている。木陰にかくれ全貌が写真に収まらないのは残念である。古寺を尋ねその美貌に接するのもまたよいものである。
 
みほとけは いまさずなりて ふるあめに わがいしぶみの  ねれたつらしも <会津八一>
 昭和18年、新薬師寺を象徴する香薬師(如来)が盗難にあった。白鳳の金銅仏として知られ、本堂の須弥壇上に居並ぶ十二神将像など数ある当寺の仏像のなかでも香薬師は薬師信仰上の重要な仏であった。それゆえ新薬師寺は香薬師の別称で呼ばれることもあったことは既述のとおり。同年3月、新薬師寺を訪れた会津八一は、香薬師のいませぬ寺で、えもいわれない寂寥感に襲われたようだった。失われた御仏は未だ発見されず、原型から復元した像が祀られている。−平成21年−