奈良
東大寺法華堂(三月堂)−奈良市−
法華堂(三月堂) 東大寺境内の東方、観音山の麓に法華堂(三月堂)がある。もと金鐘寺或いは羂索院とも称し、天平5(733)年、聖武天皇が良弁僧正のために建立した寺である。後年、東大寺に属するようになった。
 本尊不空権羂索観音は二重の台座に直立する大乾漆像である。宝冠は銀の透かし彫りで宝相華模様を表わす。惜しげもなく珠玉をちりばめた天平の精華だ。本尊の左右に梵天と帝釈天。前面左右に日光、月光菩薩。みな乾漆像である。日光、月光の白々とした御身の合掌姿は印象的である。天平の祈りを伝える。吉祥天、弁財天の塑像、四天王、二王、執金剛像と堂内の諸仏は天平の声威をほしいままにしているようだ。
 法華堂は現存する東大寺伽藍中、最も古く実に1200年の霜月を経てなお、奈良時代の優技と鎌倉時代の雄奔な気風を今日に伝えている。両時代のそれが少しも緊張感が解けることなく同化して美しい。これほど不思議な建物はどこにもない。あせが吹き出る夏には涼風を、うっすらと雪化粧した冬の日には仙風が吹き出すのだ。御堂は、境内の霊気に同化し、単純明快で優れて近代的な調和の旋律を奏でるのである。
 東大寺は治承の兵火によって灰塵と化し、わずかに焼け残った法華堂で諸仏事がなされたという。東大寺の再建の功労者は大勧進職を務めた俊乗坊重源(1121〜1206)である。その際、大仏殿復興の余財で旧来の法華本堂に5間2面の禮堂が付加され、今の5間8面の大堂が誕生したのである。しかし、法華堂本堂の寄棟は維持され、その前方に妻を正面とした入母屋を吹き合わせて禮堂となした。禮堂を付したことによって法華堂は一段と格調を増し、余人の目をひくこととなったのである。私たちはこれほどの建築物をあみ出した先人を誇りとしなければならない。
 三月堂(法華堂)はお水取りとともに東大寺の行法の双璧と称される「方広会」がおこなわれるところだ。方広会は、毎年、12月16日の良弁僧正の忌日に行なわれる。当日の行事は一山の大衆が素絹紋白の正服を着て入堂、鎌倉以来の古式によって唄、表白、心経の順序で始まり、華厳に関する論議があり、夜半に及んで閉じられる。方広会の「方広」は「大方広華厳経」から採られたものである。当日の論議によって、華厳宗の塔中住職の資格が審議される。論議は先ず論者が謡曲の音声に似た節回しで朗々と華厳の大義を説き、これを難詰する役柄の精義と問者がいて、さらに審判者である探題が座している。いわば探題の立会いで口頭試問が行なわれるわけである。これにパスした僧が塔中住職たる資格を得る。なんともゆかしく、ほほえましい三月堂の方広会は、法相宗の慈恩会とともに大和古寺における注目すべき行事であろう。
 法華堂の禮堂前に石灯籠が立っている。宋人の伊行末(いのゆきすえ)が奉納した石灯籠(写真上)である。行末は重源に導かれ、陳和卿らとともに宋から来日した石工である。大仏殿石壇や四面回廊などの修築を行なった功労により「権守」を受領している。石灯籠の施入はそうした処遇への御礼の意味合いがあったのだろう。瀟洒で姿の良い燈籠である。−平成20年7月−

法華堂(三月堂)
 法華堂(三月堂):向って正面右側部分が鎌倉時代
 に付加された禮堂