奈良
般若寺−奈良市般若寺町−
   散りたまる花や般若の紙の向   <去来>        
般若寺の十三層石塔婆 花の寺に石の塔。奈良市街の北に、山城に通づる旧街道がある。寺はその街道沿いにあり飛鳥時代の創建と伝えられる。天平18(746)年、聖武天皇は当寺に大般若経を奉じ官寺としたが、度重なる兵乱によって消亡、再建を繰り返し、寺運の消長が著しい。この寺は花の寺としてよく知られ、境内の石仏にも奈良らしさが漂う寺である。
 寺の境内で石造十三層石塔婆(写真左及び右下)がひと際高く、天を衝く。塔は聖武天皇によって建立され平重衡の南都焼討ちの兵火によって少なからず被害を受け、後年再建されたもののようである。
 再建された塔は鎌倉様の特徴が顕著である。塔を再建した石工は伊行末(いのゆきすえ)と推認される。行末は重源に導かれ陳和卿らとともに来日した宋人である。東大寺法華堂(三月堂)の前に燈籠(写真右下)が建ち、記銘から建長6(1254)年に伊権守行末が施入したものであることがわかる。行末は東大寺の再建につき大仏殿石壇や四面回廊などの修築を行なった功労により「権守」を受領し、御礼に燈籠を施入したものであろう。その後も伊一族は石工として大和や山城などで石塔婆や石仏などの像造に携わり、わが国の仏教振興に少なからず貢献している。
 般若寺の石造十三層石塔婆(写真下)は花崗岩製で総高14.2b。日本第二位の大石塔である。軸石に薬師
石造十三層石塔婆 伊権守行末献灯
、釈迦、阿弥陀、弥勒の四方仏が刻まれている。記銘が摩滅しているのは惜しいが、行末の子である伊行吉(いのゆきよし)が弘長元(1261)年に父行末の供養ために造立した笠塔婆(写真左下)の銘文から、石造十三層石塔婆は行末の作品と推認されるのである。つまり、銘文に・・・現在慈母就中般若寺大石塔者為・・・とあり、般若寺石造十三層塔の作者は伊行末とわかる。笠塔婆の銘文は同時に、行末の出身地、来日目的、陳和卿の主務などについても幾多の情報を提供している。
 石造十三層塔の右前に笠塔婆が2基あり、並列して建っている。南側の塔は高さ4.46b、北側のものは4.76bある。 日本最古にして最大の笠塔婆である。薬研彫の美しい字体は後の板碑などの手本となることもあったであろう。もともと笠塔婆は寺の南方にあり、楼門と十三層塔の間に建っていたが今は現在地に移されている。
 般若寺の楼門もまた軽快でよい雰囲気がある。十三層塔の重さを和らげて余りある。一間一戸、入母屋造り本瓦葺、屋根の勾配や軒周りの斗キョウ木鼻などにも天竺様が感じられる。鎌倉時代の作である。 
笠塔婆(伊行吉作) 楼門

十三層石塔婆
(宇治川・浮島)
十三層石塔婆
(笠置寺)
 宋人の招聘には入唐三度上人と呼ばれた俊乗坊重源(1121〜1206年)が関わっている。重源は南都の焼き討ちで焼失した東大寺再興に当たって、大勧進職を務めた人である。東大寺造立供養記から伊行末ら宋人石工は重源に導かれ陳和卿らとともに来日した人たちである。宋人の記録は、北吉品の手記「聞書覚書」にもみえる。
 加茂の当尾の笑い仏は記銘から伊行末の孫末行の手によるものであることがわかる。弘安9(1286)年、南都西大寺の叡尊が宇治橋の修築を行なった際、橋供養に造立した宇治川・浮島の十三層石塔婆(写真右)や笠置寺の十三層石塔婆(写真右)など鎌倉時代の石塔婆(層塔)は般若寺の十三層石塔婆と酷似するものが多い。また、室生の磨崖弥勒石像(大野寺)など当時の石仏などで傑出した技量が認められるものは、伊行末の一族によって製作されたものも多かったであろう。