宇陀川の清流が大野寺そばで細流と出合い、川原が開けている。川岸に建つささやかな寺の対岸に、有名な磨崖仏が峙立している。
この巨大な弥勒菩薩は壺形にほりくぼめ磨いた壁面に筋彫りされ、右手を施無畏印、左手を屈臂印に結び、蓮台を踏み立っている。像高11.5メートル。総高は約14メートルにもなろう。 石像の向かって左手に種字で表した尊勝曼荼羅がみえる。このプロポーションの良いエキゾティックな石仏は古来、よく知られていたらしく、本居宣長の菅笠日記や三浦梅園の東遊草に参籠の記録がみえる。像は後鳥羽上皇の叡願によって1219(承久元)年に地鎮され、1221(承久3)年に上皇の御幸のもと開眼供養が盛大に行われた。 そのような記録が興福寺別当次第などにみえる。開眼年の9月、後鳥羽上皇の討幕の院宣が諸国に発せられ、承久の乱が勃発する。乱は短時日のうちに終息し、上皇は隠岐島に配流になる。弥勒菩薩造立の四ヵ月後の事件である。地鎮の年に将軍源実朝が公暁によって暗殺される事件が起きている。幕府内部の混乱は、朝廷復権の糸口と考えられたのかもしれない。上皇のそうした願が弥勒菩薩の造立動機と考えられなくもない。
磨崖弥勒菩薩は山城の笠置寺の弥勒菩薩石仏(同寺本尊)を手本にして彫刻されたものであることが興福寺別当次第にみえる。今日、笠置寺の弥勒菩薩石仏は、度重なる火災や地震によって壁面を失い、その姿をとどめていないが、壁面に残る壺形のくぼみに筋彫りの弥勒の存在をうかがわせる。笠置寺は寺伝によれば白鳳年間の草創とされ、寺堂の造営は興福寺の僧貞慶に始まり後鳥羽上皇が貞慶を落慶の導師にしたといわれる。そうすると、大野の弥勒菩薩石仏は笠置寺のそれを手本にしたものであるから、その様式、手法は逆に言えば大野の弥勒菩薩石仏と同じと推定される。次に、大野と弥勒菩薩石仏が笠置寺のそれを模刻したものと推してもこれほどの像を描き、彫ることのできる石工への興味がわく。 |