加茂の笑い仏が佇む坂道を少し上ると岩船寺方面に向かう道に交わる。そこはT字路になっていて、交差点の右手の大岩を彫り窪めた石面に磨崖仏が刻まれている(写真下)。印刻された弥勒菩薩がうっすらと浮きでている。壁面の劣化により願文は肉眼では確認しづらいが、次のように記銘されている。
この磨崖仏は「みろくの辻弥勒磨崖仏」と通称される石仏で、弥勒菩薩を線刻したものである。銘文から造立は文永11(1274)年、永清という者が慈父上生の供養に造立したことがわかる。石工は伊末行といわれるが款文は確認できない。私はそれと確認できる拓本にも接したこともない。
みろくの辻弥勒磨崖仏の造立が笑い仏のそれより25年先行し、笑い仏の顔立ちなどから石工の成長を読み取ることもでき、単純に末行説を否定することは適切ではなかろう。
さらにこのみろくの辻弥勒磨崖仏につき、笠置寺の弥勒菩薩立像を手本にしたという説がある。承久3(1221)年造立の大野の磨崖弥勒菩薩石仏についても笠置寺の弥勒菩薩を手本にしたものと推されている。永清がみろくの辻弥勒磨崖仏の造立を発願した当時、巨大な弥勒(菩薩)石仏が山城の笠置と・大和の室生(大野)に2体存在したことになる。みろくの辻弥勒磨崖仏の石工は、その造像にあたりいずれの弥勒菩薩を手本したのであろうか。
みろくの辻弥勒磨崖仏の石工は室生(大野)は加茂・当尾からほど遠く、かつ笠置にオリジナルの弥勒菩薩立像があるのに敢て室生(大野)のそれを模作する必要はなく笠置の弥勒菩薩を手本としたという説はそれなりの説得力がある。
笠置寺の弥勒菩薩立像は同寺の本尊として本堂に祀られていたが、元弘元(1331)年の南北朝の戦乱に遭い炎上。その後もしばしば兵火に遭い、壁面の弥勒菩薩立像は消亡した。今は立像が彫られていた窪みを見い出すのみである。笠置の弥勒菩薩立像が現存しないため、みろくの辻弥勒磨崖仏が笠置、室生(大野)いずれの弥勒菩薩を模作したものか物的な確証は得られない。
私は、仁和寺の弥勒菩薩図像集に見る笠置寺の弥勒菩薩立像から推して、みろくの辻弥勒磨崖仏の実像はいかにも形式的に見え、石工の習作の感を拭い去ることができない。笑い仏の表情にみる石工の技をみろくの辻弥勒磨崖仏から感じ取ることもできないのである。笑い仏は伊行末の裔孫末行の手になる作品であることは明らか。みろくの辻弥勒磨崖仏もまた伊派の石工が刻んだ石仏と見ることも、当尾の当時の宗教的環境からみてまた自然であり、ことさら他系統の石工が刻んだ笠置寺の磨崖弥勒菩薩石仏を手本にすることはかえって不自然であろう。
室生(大野)の弥勒菩薩石仏の開眼供養から僅か52年後に、みろくの辻弥勒磨崖仏は模作された。それほど室生(大野)の磨崖弥勒菩薩石仏は話題の石仏であったのだろう。かつ仏像の模作の模作例は木像にも見られる。
冬枯れの寒い日、磨崖仏の前で手を合わせる人がいる。遠来の石仏巡りの巡礼者であろう。−平成19年12月− |