九州絶佳選
佐賀

神集島(かしわじま)−唐津市−

  たらし姫御船泊てけむ松浦の海妹が待つべき月は経につつ 
                     <万葉集 遣新羅使>
 東松浦半島の北端辺りの海上に「神集島」という周囲6.8キロメートルほどの島がある。島は、本土の湊漁港から800メートルと至近。渡船で5分ほど。約600人の島民が暮す島である。
 対岸に立神岩(写真右手)がそそり立ち、島との間隙の海上を漁船がひっきりなしによぎってゆく。
 古代に狛島と呼ばれた神集島は、松浦から大陸に向かって航行する船の停泊地だった。志摩の引津を出た遣新羅船が立ち寄る本邦最後のとまりだった。天平8年(736年)2月、阿倍継麻呂が遣新羅大使に任命され、畿内を出立した船が神集島に到着したときには秋風が吹くころだった。万葉集に実に140余首の遣新羅使関係者の歌が撰定されているが、神集島で歌われたものが標記の歌を含め7首ある。うち6首までが妻らとの別れを傷んだものであり、なんとも弱々しくただただ別れの悲しみと航海の不安をにじませている。松浦は神功皇后(オキナガタラシヒメ)が朝鮮半島へ向かった故地。松浦潟に注ぐ玉島川にまつわる有名な歌がある。その神功皇后が泊まった海と鼓舞してみても、いたずらに日は過ぎ、自分の帰りを待つ妻を想うとなんともやるせないことよと、ついつい嘆かずにはおられないのである。遣新羅使一行は壱岐で雪連宅満が病死し、悲しみにくれる。
 さらに、遣新羅使に対する新羅の対応は常礼を欠くものであった。翌天平9年(737)、帰朝した遣新羅使は顛末を朝廷に奏上し、伊勢神宮など諸神に新羅の無礼が報告された。朝廷は天平10年、来朝した新羅使の入京を許さず太宰府から放還したという。
 神集島の鬼塚古墳群は県下で数少ない横口式古墳。島の要所に万葉歌碑が建つ。神集島はいま、歴史を飲み込んで、その平らな島の屋根を玄界灘に横たえている。―平成17年9月― 

神集島

神集島漁港遠望

神集島漁港

鬼塚古墳
遣新羅使詠歌(万葉集)
暗峠越えの道 家島 多麻の浦 鞆の浦
長井の浦 風早の浦 倉橋島 麻里布の浦
大島の鳴門 熊毛の浦 祝島 鴻臚館跡
荒津の崎 唐泊 引津の泊 神集島
壱岐・原の辻遺跡 対馬の運河 対馬・竹敷の浦 参考:(磐国山)

 遣新羅使の第1回目の派遣は天武5(675)年。白村江の戦において日本軍が唐・新羅の連合軍に敗退してから10年余を過ぎたころだった。中国、朝鮮半島、日本の軍事的緊張が高まると、決まって日本や新羅など朝鮮半島諸国は、相互に連携相手を見出し自国の防衛に奔走するのが常だった。阿倍継麻呂が遣新羅大使に任命され新羅に向かった頃、新興の渤海は日本と友好関係を保つようになる。唐、新羅の軍事的圧力に抗するため、渤海は神亀4(727)年、日本に使節団を派遣していたのである。新羅が反発し日本との関係が悪化すると、遣唐使船の航路(北路)が使えなくなり、南路、南島路が開発されるようになる。さらに新羅は、天平勝宝5(753)年に派遣された小野田守を大使とする遣新羅使についても国王が会うことなく追い返している。新羅と日本の関係について、日本書紀は、推古8(600)年、任那のため新羅を撃ち、新羅は調貢するようになったとしるしている。このような旧事から日本は、新羅を一段下にみていたことにも原因があったのだろう。将軍等を新羅から召し返すとまた、新羅は任那を侵したとしるしており、久目皇子が撃新羅将軍に任命され、軍衆二万五千人が授けられ新羅遠征のため筑紫に向かったこともあった。不穏な極東の政治状況がこのころまで尾をひいていたというべきであろう。