奈良、大阪
暗峠越えの道
 夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山 越えてそ我が来る
 妹が目を欲り <万葉集 秦間満>
 菊の香に くらがり登る 節句かな <芭蕉>
 
 生駒山は、大和から河内、西国に旅する者がどうして越えなければならない山である。険しくときには懐かしい山に、十三峠越、亀の瀬越など幾筋もの道が刻まれている。暗峠越えは、そうした大和と河内を結ぶ峠道のひとつである。生駒山の鞍部に刻まれたこの道は、たぶん上代から近世に至るまで両国の幹線道路であるばかりか、子が親に、夫が妻に情を通わせるせわしげな道であり続けた。
 天平8(736)年、遣新羅使ら一行は、難波津を出航し朝鮮半島を目指したのであるが、一行中に秦間満はたのはしまろがいた。出航までに多少の日があったのだろう。間満は「・・・妹が目を欲り」と詠い、寸暇を惜しむように妻の許に帰っている。間満のせいた気持ちは、たぶん暗峠越えの道を選択させたことであろう。
 松尾芭蕉もまた暗峠を越えた一人である。元禄7(1694)年9月8日、伊賀上野を発った。芭蕉の体の衰えを
勧成院句碑
難波別院句碑
覚った兄は支考、惟然ら伴の者に介抱を頼んで見送り、一行は笠置から川舟に乗り、木津川を下りその日のうちに奈良に着いた。「菊の香や奈良には古き仏達」とよむ。翌9日、奈良を出て重陽の節句に暗峠に至った芭蕉は、「菊の香にくらがり登る節句かな」とよみ、暗峠で駕籠に乗り難波に向かっている。もはや険しい峠道を越える体力がなかったのであろう。駕籠をおり生玉辺りまで来ると日は暮れかかっている。「菊に出て奈良と難波は宵月夜」とよみ難波に入った芭蕉は、約1ヵ月後の10月12日、「旅に病んでゆめは枯野をかけまはる」とうたって難波の地に没している。暗峠の大阪方の出入口の勧成院(東大阪市)と芭蕉の終焉地近くの難波別院(大阪市中央区久宝寺町)にそれぞれ句碑が建っている(写真上)。−平成20年3月−

遣新羅使詠歌(万葉集)
暗峠越えの道 家島 多麻の浦 鞆の浦
長井の浦 風早の浦 倉橋島 麻里布の浦
大島の鳴門 熊毛の浦 祝島 鴻臚館跡
荒津の崎 唐泊 引津の泊 神集島
壱岐・原の辻遺跡 対馬の運河 対馬・竹敷の浦 参考:(磐国山)