九州絶佳選
福岡
志摩の景観−志摩町−

立石山付近から可也山、引津湾を望む

志摩町は、唐津湾の東方に突き出た糸島半島の西部にある町。半島の付け根の辺りを雷山川が流れ美田が広がり、雷山川の北に可也山(365b)が聳える。筑前富士の名がある可也山がビュートの麗姿を天空に映し、立石山(209b)、彦山(231b)と鼎立し、立石山の北方で芥屋の大門が玄界灘に迫る。
 立石山辺りから眺めると眼下に、引津湾(写真上)や芥屋海岸の絶景に接することができる。可也山が引津湾に溶け込む景観はまことにのびやかで雄大である。
 引津湾は引津とまりが置かれたところ。遣新羅船の停泊地だった。引津亭を出航した遣新羅船は本邦最後の停泊地、松浦の神集島をめざした。万葉集に引津の亭で歌った遣新羅使の歌が7首ある。御崎にある綿積神社の境内に万葉歌碑が2基立っている。うちひとつの歌碑に「草枕旅を苦しみ・・・」(下記参照)の歌が刻まれている。福田赳夫翁(元内閣総理大臣)の揮毫。揮毫の経緯はわからないが、味わいのある枯れた字が万葉の故地によく似合っている。

    草枕旅を苦しみ恋ひ居れば 可也の山辺に男鹿鳴くも
                           <万葉集>

新町遺跡展示館
半両銭
 引津湾の湾奥に新町という町がある。町中の背後に水田が開け、「新町遺跡」や新町遺跡に接するように「御床松原遺跡」が所在する。いずれも弥生時代の遺跡であるが、新町遺跡は東方に可也山を望む小高い丘陵上にあり、遺跡上に覆屋を建て「新町遺跡展示館」(写真右)になっている。支石墓(ドルメン)や美しい曲線をもつ特異なかたちをした甕棺や中国銭(貨泉)が出土した遺跡である。貨泉は古代中国の新代に鋳造(AC14〜BC40年)されたもの。昭和57年には、御床松原遺跡から貨泉に加えて前漢の人字半両銭(BC175年以降)が出土した。わが国で発見された最古の中国貨幣だった。
 新町遺跡の支石墓群は、隣町の前原市の志登支石墓群などとともによく知られた遺跡である。支石墓という特異な墓制や出土した貨幣などからこの地域が大陸との密接な関係をもった地域であったことが窺える。
 可也山から流れ出る小河川は、水を制しやすく稲作の適地。稲作文化が早くから花開き、引津のような海浜部では漁労民が水没しアワビなどの魚貝を捕っていたであろう。鉄製のアワビオコシが御床松原遺跡から出土している。
 弥生時代において、製錬技術を持たなかったわが国は、もっぱら朝鮮半島から鉄てい等の金属地金を輸入していた。しかし、一体金属地金の代価を何で決済していたのであろうか。米、塩等の重量物は、粗末な船で渡海を伴う交易の決済手段としては不適である。中国側で記録された倭国の朝貢記録などから、当時としては生口が決済手段のひとつになっていたかもしれないが、日常性がない。干しアワビや織物などが一番それらしく思われるがどれほど需要があったのかはっきりしない。考えるに、倭国の旺盛な金属需要を支える恒常的な輸入手段として志摩の人々などが朝鮮半島にいわば出稼ぎに行き、彼の地で内航海運業のような営業行為を行ってその代償に鏡や金属地金などを得て帰るという状況もあったのではないだろうか。あるいは、もっぱらそのような役割は壱岐・対馬の海人の職分として行われ、朝鮮半島に直接、渡海しなくとも米等で決済できるルートもあったかもしれない。重要事であるが、よくわからない。
 志摩はその南部で、魏志倭人伝が伝える伊都国(現在の前原市)に接する。上古の糸島半島は、海水が入り込んだ島のような地形であり、志摩と伊都とは地理的には一線を画したクニであった。しかし、支石墓の分布など共通の文化圏をもちともに栄えた国であった。志摩を斯馬国に当てる者もいる。
加布里漁港(前原市)から加也山を望む