周防岩城山の神籠石−光市大和町− | |||||
神護石は約1メートル四方に整形した石を山周りに鉢巻状に設置したもので、約2,6キロメートルにおよぶ列石(写真上)が廻らされている。谷を横断するところには水門が設けられている。神籠石の名称は、九州で発見された久留米市所在の高良山の列石が神社周りに築かれていたことから命名されたものである。神籠石は九州に築かれたものが多いが、部材のあり方を含め築造法に共通点が多い。 神籠石の築造経緯について、それが西暦663年(天智2年)、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ朝鮮半島から撤退したヤマト王権が、唐・新羅の攻撃に備え築造した大野城や基肄城と築造法や水門等の造りが酷似することから周防の神籠石や讃岐の城山など瀬戸内海沿岸部の神籠石を含め白村江の敗戦関連施設とする説もある。 なるほど雷山や周防岩城山の水門、石塁の造りは大野城、基肄城のものと酷似している。しかし、日本書紀に、大野城や基肄城、金田城、屋島城、高安城など対馬から筑紫、瀬戸内海を経て大和にいたる要所に城を築いた記録はあるものの雷山をはじめとして杷木、高良山、女山、鹿毛馬、御所ヶ谷、帯隅山など北部九州に集中する神籠石や周防岩城山、讃岐の城山など瀬戸内海沿岸部に築かれた神籠石に言及する記述はない。 神籠石は朝鮮半島の古代山城を手本にして築かれたものと考えられるが、半島では4、5世紀から山城が築造されてきた経緯がある。神籠石を白村江の敗戦関連施設とすると、日本に山城が設置されるまでに三世紀間のタイムラグがある。私は、九州の神護石は白村江の敗戦前にまず九州に築かれたのではないかと考えてもみる。これほどの規模の施設が日本書紀に記述されないのはいかにも不自然である。具体的には、6世紀ころに筑紫の磐井によって築かれたものではないかと考えるのであるが、磐井は新羅に近い人であったから九州の覇王として大いにヤマトを意識し、また半島の脅威を意識することもあったのではないか。磐井の乱を平定後、ヤマト王権は九州に温存された技術を活かし、白村江の敗戦を受けた防衛ラインを再整備したものではないだろうか。周防の岩城山神籠石もその一環として整備されたもののように思う。−平成19年1月− |
|||||
|
|||||
|
|||||