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福岡 |
御所ヶ谷神籠石−行橋市− |
行橋市の南部にホトギ山がある。標高246メートルの山の北西斜面に、石塁、土塁が3キロメートルほど巡っている。谷筋に水門とみられる石造施設が7箇所ある。水門の位置などからそれぞれ中門、西門、東門等の名称が付されている。
この種の石塁や水門を備える施設が福岡、佐賀県下で、10箇所ほど確認されている。神籠石と通称され、日本国内の神籠石の大半は、北部九州に所在している。朝鮮式山城と考えられているが、築造経緯や年代については諸説がある。
神籠石の築造経緯について、白村江の戦い(西暦663年)で唐・新羅の連合軍に退れたヤマト王権が追撃を恐れ築造した朝鮮式山城と考えるのが一般的である。
日本書紀の記述から築造年代が明らかな大野城、基肄城との築造技術の比較や連想からそのように推定されている。神籠石は大野城等山城の石塁や水門とその構造、規格等が酷似しているが、これほどの規模があり分布に広がりを持つ神籠石が日本書紀に記述がないのはいかにも不可解である。ヤマト王権がしるしたくない何かの事情が存在したか、白村江より遥かに古い時代にヤマト王権に覚られずに何者かが組織的に築造したものと考えられないものか。
白村江をさかのぼること約140年前、筑紫にヤマト王権に反旗を翻した磐井の君がいた。豊の君、火の君とも協力関係を保っていた豪族である。継体天皇の21年(西暦527年)、ヤマト王権は朝鮮半島の南加羅などの失地回復のため新羅に出兵を企て6万の兵を西下させたのであるが、磐井が近江毛野(けぬ)の進軍を阻んだ事件が起きた。反乱は1年半におよんだが磐井はヤマト王権が送った物部麁鹿火(あらかひ)によって滅せられた。
磐井の反乱は、何の前触れもなく突如発生したというようなものではなかろう。対朝鮮半島政策をめぐるヤマト王権と磐井の対立が伏線として存在したのではないだろうか。磐井が南下の圧力を強めていた高句麗を新羅と連合して討とうとしたのに対し、ヤマト王権は百済側にたち新羅征伐の戦略を描き磐井に協力を求めてきたから、磐井はヤマト王権に反旗を翻したのであろう。朝鮮半島では、新羅の三年山城が慈悲王13年(470年)に築城されるなど4、5世紀に盛んに山城が築城されている。新羅と交流のあった磐井が築城技術を移入できなかったはずもなく、豊の君、火の君の盟友と協調しながら、ヤマト王権に抗すべく着々と神籠石を築いたのではないか。神護石は、磐井が版図とした古代の筑紫を取り巻くようにして、古代の幹道沿いの要所に分布しているのである。
磐井は、生存中に九州最大の前方後円墳を八女の岩戸山に築き、巨大な石人石馬を巡らせた筑紫の国造。朝鮮半島に開港していた有明海を舞台に大いに実力を蓄え、壮大なロマンを描いていたのではないか。百済、新羅、加耶諸国が磐井に接近し貢献を繰り返す状況下で、大伴金村による任那6県の百済への割譲は磐井には余りにも姑息な半島戦略と映ったことであろう。磐井の没後、近江毛野が朝鮮半島でたどった哀れな事実を顧みるとき、ヤマト王権は何ら得るところもなく朝鮮半島から叩きだされてしまったのである。そしてまた、ヤマト王権は、磐井の反乱から約140年後、白村江の戦で唐・新羅の連合軍に完敗し、もはや半島に雄飛した足跡すら消されてしまった。
九州、瀬戸内海の沿岸には日本書紀に現れない神籠石が数多い。城山城(香川県)、鬼の城(岡山県)なども規格、構造は神籠石と共通しそれは4、5世紀に築かれた朝鮮半島の山城とうりふたつである。それらの山城を含め神籠石はみな白村江の敗戦に起因し、ヤマト王権によって同時期に築造されたものであろうか、疑問がある。神籠石を単眼視することもないであろう。ダイナミックに展開するアジア、国内情勢は、磐井にとどまらず諸豪族の防衛本能を大いに駆りたてたに違いない。
ホトギ山を下ると麓の住吉公園で楓が燃え、真っ赤に色づいた親指の爪ほどの山柿が晩秋の淡い陽を浴びている。−平成17年11月− [ 参照 : 雷山の神籠石] |
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