前原市の南部に雷山(955.3b、写真左下)という山がある。その北麓に切石を塀のように積み上げた石垣や水門(写真上)が残っている。一群の石積みは神籠石と呼ばれるものである。古代の山城跡と推定されているが記録がなく年代、築造の経緯がはっきりしない。山口、岡山、香川県下にも神籠石に酷似し、山城とみられる遺跡が所在する。全国の神籠石の大部分は九州に所在している。
雷山神籠石は、雷山から張り出した平坦な尾根に石塁がめぐり、城内を流れる谷筋に水門が設けられている。上流部の水門は北水門、下流部のそれは南水門(写真上)とよばれている。城域は、東西300b、南北700bほどである。
南水門は形状をよくとどめ重厚に造られた様子がうかがわれ、北水門は出水による被災が著しく切石は確認できるものの原形をとどめていない。南北の水門付近に石塁が残っている。北水門の下流に後年築造されたかんがい用ため池がある。
神籠石の築造経緯について、西暦663年(天智2年)、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ朝鮮半島から撤退したヤマト王権が、唐・新羅の攻撃に備え築造した大野城や基肄城の枝城とする説がある。なるほど雷山の水門、石塁の造りは大野城、基肄城のものと酷似している。しかし、日本書紀に、大野城や基肄城など対馬から瀬戸内海を経て大和にいたる要所に城を築いた記録はあるものの雷山をはじめとして杷木、高良山、女山、鹿毛馬、御所ヶ谷、帯隅山など北部九州に集中する神籠石や周防の岩城山、讃岐の城山に係る記述はない。白村江の敗戦から日本書記の編纂までにそれほど時日を経ておらず、また軍事防衛施設という性格上、枝城の配置が秘匿された経緯があるのか、周辺事情も不明である。また雷山は、大宰大弐吉備真備が天平勝宝8年(756年)から約12年かけて築城したと続日本紀がしるす怡土城の枝城と想定する余地もある。
しかし、これほど広範囲に分布しかつ類似する構造の石塁や水門を備える多くの神籠石について、日本書紀に記述がないのはいかにも不可解である。少なくとも神経質なまでに北部九州を包囲するようにして設けられた神籠石は、白村江を遡る磐井の時代のものではないだろうか。朝鮮式山城は朝鮮半島における政争の激化からすでに4、5世紀から盛んに築造されている。朝鮮式山城をまねたと考えられる神籠石がそれから200年以上を経た天智年間まで日本に移入されなかったとするほど倭国は平穏ではなかった。
神籠石と装飾古墳の分布が概ね一致し、装飾古墳の分布は磐井の勢力圏と重なる。神籠石は、磐井がヤマト王権や朝鮮半島からの侵攻に備え、磐井の版図の要所に築造されたものではないだろうか。有事における里人の避難場所であり、陣地にもなったのではないか。女山や高良山の神籠石を眺めていると、磐井の反乱でヤマト王権が派遣した麁鹿火の侵攻が迫り、神籠石に避難する里人の姿がみえるようである。
「神籠石」の名称は、それが最初に発見された久留米の高良山の神籠石が高良大社を囲むように配されていたことから命名された。呼称とイメージが必ずしも一致しない。何か良い名称が付されてもよいように思うが、いかがなものであろうか。−平成17年8月− |