福岡と佐賀の県境に基山(標高404.5b)という山がある。基山の頂上まで、JR鹿児島線の基山駅から徒歩40分ほどである。
この山を福岡の人はキヤマと呼び、佐賀の人はキザンと呼ぶ。 山頂に基肄城跡(写真左)の土塁が残り、その上に天智天皇欽仰之碑(写真左下)が立っている。
基肄城は、西暦663年、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗退し、朝鮮半島から撤退した翌々年に、百済の亡命技術者の協力を得て大宰府の防衛のために築かれた朝鮮式山城である。大宰府の背後に聳える四王寺山に築かれた大野城とともに日本最古の山城である、と日本書紀は伝えている。
城は、基山の山腹に延長4キロ余の土塁、石塁を巡らせたもので、水門、門址、烽火台、建物礎石などが残っている。城の南麓(基山町丸林)に設けられた水門(写真上)は、高さ8.5メートル、長さ26メートルもあり、石垣の下部に高さ1.4メートル、幅1メートル、奥行きは9.5メートルの排水口がある。大人が屈んで楽に入れるほどの大きさである。この水門を潜って城内に入った者は、筑紫城衛禁律(大宝律令)によって1年の徒刑に処せられることになっていた。保存状態も大変良い。水門に向かって右手に門址がある。
728年(神亀5年)初夏、大宰府に赴任して間もないころ、大伴旅人は妻大伴郎女を亡くし、都から弔問に訪れた勅使石上堅魚を迎え、基肄城で饗応している。老境にあって妻郎女を喪った旅人の悲しみは極点に達していたであろう。基肄城で堅魚が歌を贈り、旅人がこれにかえしている。山上憶良も日本挽歌を送っている。 |