菅公の観望(神柄の山々)-坂出市- |
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柿本人麻呂は、・・・玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れど飽かぬ 神柄か ここだ貴き 天地 月日とともに 足りゆかむ ・・・と讃岐の自然を詠う。大小無数のメーサやビュートの山々が美しい曲線を描き平野を飾っている。東方で堂山、六ツ目山、加藍山の三山が麗姿を競う。その手前に聳える鷲ノ山、十瓶山が府中湖に寄り添う。その横で猫山が腹ばい、城山が姿よく平野に浮かんでいる(写真上)。はるかかなたで、阿讃の山々が青くかすみ山容を東西に横たえている。城山(きやま。標高462メートル)頂上からの眺めである。 少し位置を変えれば、西方に讃岐富士、北方に金山、常山などの山々が重畳を成し、背後の瀬戸内海のブルーに映える。まことに見れどあかぬ讃岐の山々。讃岐の国司菅原道真にちなんで、城山頂上からの眺めを「菅公の観望」とでも名付けさせていただこう。
城山の東南に突出した峰が明神原。古代祭祀遺跡と考えられる巨石群(写真右)がある。祭祀が社に移行する以前の磐垣ではないだろうか。祭祀は、開拓の祖・讃岐忌部によって行なわれていたのであろうか。時代が降ってもこの聖域は讃岐の祭祀場であったらしく国司・菅原道真が雨乞祈願を行なったところとしてもよく知られている。 |
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城山はメーサの山。屋島と同類のテーブル・マウンテンである。山頂はやや起伏はあるが平坦地になっている。山の周囲や尾根筋に石塁、土塁遺跡が二重に廻る。石塁、土塁は、総延長距離にして約3500メートルにもなる。付近にホロソ石、マナイタ石などと呼ばれる用途不明の石造物が散在している。讃岐の中世の山城・勝賀山城などの規模をはるかに上回る。これらの遺構は、百済の公州山城や扶余半月城などの朝鮮式山城と築造方法が酷似することから、7世紀頃の城跡と推定されている。
しかし、これほどの規模を持つ遺跡の築造経緯等の記述が日本書紀などの古記録に登場しないのはまったく不思議である。
大野城は百済王国の亡命技術者によって築造された城とされているが、城山城の水門等について朝鮮式山城と比較しうるほど明確な痕跡を見出すことができたのかはなはだ疑問がある。また、身に迫る脅威が存在すれば外敵に抗するため土塁や石塁を築き避難所を設けるという発想は、別段渡来人から技術的援助を授からなくとも浮かぶであろう。さらに、新羅の三年山城など朝鮮半島では5世紀に山城が築かれている。倭国はそれより2世紀も遅れて初めて築城したという合理的な理由を欠いている。朝鮮半島の軍事的緊張は、ヤマト王権や朝鮮半島に利害を有する九州などの地方豪族にとっても人ごとであるはずがない。坂出は古代の讃岐の中心地。当地の豪族も鉄器などの流通に少なからず利権を持っていたことであろう。
城山城は、対馬の金田城、筑紫の大野城、長門の長門城、讃岐の屋島城など日本が白村江の戦に敗れ朝鮮半島経営から撤退した7世紀の東アジアの軍事的緊張から構築された城とは異なり、遅くとも5、6世紀に讃岐の豪族によって築造された山城と考えられないものか。
九州を中心にして築かれた神籠石についても同様に考えられないか。神籠石の水門等の築造規格は相互によく似ているところから、磐井の君などヤマト王権に抗した九州の豪族が築いたものとみることもできるであろう。古墳の出土遺物から筑紫、筑後の豪族における新羅等朝鮮半島国との交渉は、ヤマト王権のそれより遥かに歴史がある。山城の築造技術も早くから移入していたとしても不自然ではないだろう。−平成16年2月− |
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