兵庫
黒井城散策 5紫衣事件とお福天皇に謁見の真相
紫衣事件と譲位の狭間
 後水尾天皇の中宮和子所生の皇子二人が次々と亡くなった。一方、幕府は、柴衣着用の勅許について法度に触れる者がいると異議を唱え、朝・幕の争いが続いていた。柴衣は諸宗最高位の僧正が着用する紫の法衣などを指し、古くは青蓮院門跡が許可していた。その後、勅許に引き継がれていた。
 幕府は慶長18(1613)年に紫衣法度を定め、柴衣勅許は幕府の同意を要することした。さらに2年後の慶長20(1615)年の禁中並公家中諸法度において、勅許の厳格化が規定された。
 寛永4年(1627年)、幕府は勅許について、乱雑かつ事前に相談がなかったこと等々の法度違反に対し、元和元(1615)年以降なされた70余人の勅許を取消し綸旨を取り上げた。沢庵等3人の僧は異議を唱え幕府に意見書を提出したが、召喚され叱責の上、出羽上山や奥州棚倉に配流される事態に至り朝・幕間の緊張は極点に達していた。
 柴衣の勅許が幕府に咎められ、朝廷の権威は地に墜ちた。怒った後水尾天皇は、2年後(寛永6年(1629)年)に中宮興子所生の高仁親王への譲位を洩らした。しかし翌寛永5(1628)年 6月、高仁親王(4歳)は夭折。譲位の対象がなくなった。
 天皇の譲位について、天皇に痔疾があり鍼治療(玉体に鍼治療は不可の考え方)ができないためとする説がある、天皇は秀忠、家光の説得によって思いとどまっている。
 天皇は30余歳と若く、生涯33人の子があった。女御や夫人などに皇子が誕生する可能性はあり得ないことではない。譲位をめぐる朝・幕の思いは様々。腹の探りあいとなったことだろう。

譲位の背景とお福の謁見の真相
 寛永6(1629)年9月、伊勢路に杖を曳く齢50歳のお福の姿があった。お福は病床の家光の快癒を願い代理として伊勢神宮参拝の旅路にあったのだ。
 ところがお福は参拝のついでに上洛し、華やかな行列を従えて後水尾天皇に拝謁を願い出て、寛永6年(1629)年101日、謁見を果たした。その様子について公家衆の中には‘勿体なき事に候。帝道、民の塗墨に落候’と日記に書き付けるなどお福の謁見に横車を入れる者はいたが、謁見のわけを知る者はいなかったようだ。 
 後水尾天皇にお福が謁見した1ヶ月後の寛永6(1629)年11月8日、天皇は譲位した。
 
お福の謁見と天皇の譲位との因果関係は不明。
 続史愚抄後編では、水尾天皇はお福の謁見を契機に譲位したとしている。お福の謁見の口上と天皇の思いが一致し、天皇は譲位を決めたといえないか。天皇もひとりの人間、謁見が無位無官のお福であったが、心が通い合えば頷くこともあるだろう。
 将軍秀忠、家光は紫衣(しい)事件など朝・幕間に難問が続出する中、乳母お福を尋ね苦悩を呟くこともあっただろう。天皇に譲位を一旦、思いとどめさせたのは秀忠、家光父子に他ならない。高仁親王が亡くなり手の平を返して譲位を迫ることは難しい。
 860年の長い歴史を破る女帝の即位への朝野の反応や徳川家の外戚問題とも絡み、将軍といえども天皇に面と向って興子内親王を天皇にと言い放てるはなしではなかった。内親王の皇位継承はそれほどセンシティブな背景があった。
 お福は、秀忠、家光との合意を元に中宮和子所生の女一の宮興子内親王への譲位を申し述べるため京に上ったと思う。お福の謁見は後水尾天皇に通じたのだ。
 謁見に失敗すればことは重大。朝廷にも幕府にも申しわけが立たない。生きては戻れないお福の命を賭けた大舞台であったに違いない。お福は天皇と対面して、
お福の謁見経過
 無位無官のお福が手ぶらで殿上に上がり、天皇に謁見することなどできるはずがなかった。
 武家伝奏三條西実条はお福を養育した公国(きんこく)の嫡男。お福は実条(さねえだ)猶妹(ていまい)(仮の妹)の縁組をして三條西家の家族・藤原福子して天皇に謁見した。お福の2回目の謁見は寛永9年(1632年)7月。従二位(北条政子や平時子と同格)に昇叙し、緋袴着用が許可され、天酌御盃(金杯)が下賜された。
 武家伝奏は上級貴族(堂上家)から選任され幕府との交渉窓口となり、幕府の決定事項を朝廷に奏請した。朝廷の朝議(公卿以上)メンバー。大坂冬の陣で家康と休戦会談を行うなど武家伝送は和平交渉などにも貢献した。
女一の宮興子内親王への加護等々を要請し、昨今の天皇の心労を思い安穏な生活への心遣いを滲ませたと私は思う。以心伝心の言葉を選んで心静かにお福は話したと思う。天皇も秀忠、家光の心中を察したことであろう。
 ある者は無位無官のお福の謁見に天皇は怒り心頭に達し、帝位を投げ出したとする。もし、そうであれば天皇はいっかいの乳母たるお福との謁見に応じ、お福に従三位を叙位し、天酌御盃(金杯)を下賜し、中宮和子がお福に‘春日局’の局号を下賜することはなかったことだろう。 
 幕府は中宮和子からの知らせで譲位を知ったのはその1か月後であったという。実にのんびりしたものである。真実とすれば武家伝奏実条は幕府から厳罰処分を奏請されてもいいはずである。否、幕府は武家伝奏から譲位の連絡を受け即位の準備を進めていたのだろう。譲位に伴う践祚の儀礼や即位の大典等々の準備に長期を要する。また、莫大な資金を必要とする。天皇の御領から資金を捻出し難く、幕府の支えあって即位が叶う。幕府は践祚の推移を見守りつつ御殿の整備等大典の準備を急いだことであろう。
 
譲位から10ヶ月後の寛永7(1630)年9月12日、中宮和子所生の女一の宮興子内親王は即位した。明正天皇となって皇位継承に係る秀忠、家光の思いはこの日に遂げられたというべきであろう。

第三代徳川将軍家光の上洛
 寛永111634)年78日、新将軍徳川家光は諸大名を率いて上洛した。新帝祝賀と民生安定の意図を込めたものではなかったか。
 家光は後水尾上皇に3千石、明正天皇に7千石の増進を行い、京師の町屋敷に5千貫(1軒134匁)の銀を配ったことが続史愚抄に見える。後者の現在値(金1両13万円と仮定)をみると、108億円を1軒当たり約30万円(約3万7千軒)配ったことになる。江戸に戻った家光は江戸市中にも銀5千貫を配っている。

後水尾上皇の院政
 後水尾上皇の幕府に対する気持ちは次第に和らいだようである。後水尾上皇は4代50年にわたって院政を敷き85歳の天寿を全うした。上皇は院政が天職のようにみえ、幕府の朝廷に対する様々の寄進も少なくなかった。これもまた中宮和子や明正天皇の存在なくして語れない。
お福の足跡
 お福が中宮和子から賜った春日局の名号は、その生まれ故郷である律令時代の氷上郡内の郷名春部(かすがべ)(兵庫県丹波市春日町)に由来するのであろう。丹波一帯特に氷上郡等に摂関家(藤原氏)を領家とする荘園が数多く存在し、荘内に春日社を奉祀する神社も少なくない。春日局の名称はその歴史的風土を考慮して付された名号と思う
 寛永31626)年、お江(享年53歳)が亡くなるとお福は大奥を取り仕切るようになる。大名証人(大名重臣の妻子の江戸住まいの義務化)など幕政に才能を開花させ徳川幕府大奥の組織整備に辣腕を振るったことは間違いない。江戸幕府260有余年の基礎を築いた功労者の一人であろう。寛永20(1643)年914日没。享年64歳。

1 戦場の記憶とお福の生きた時代
2 本能寺の変から関が原合戦
3 江戸幕府開設と豊臣家の滅亡(大坂の陣),乳母お福の選任と意地
4 朝廷・幕府の抗争と禁裏の諸事件
5 紫衣事件とお福天皇に謁見の真相