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黒井城散策 江戸幕府開設と豊臣家の滅亡(大坂の陣)、乳母お福の選任と意地
江戸幕府の開設と竹千代の乳母お福の選任
 関ケ原合戦後3年を経た慶長8(1603)年2月、家康は征夷大将軍の宣下(従一位)を受け、同年3月、江戸幕府を開き初代将軍に就いた。家康60歳。
 翌慶長8(1603)年7月、京都所司代板倉勝重から家康の嫡孫竹千代(後の第三代将軍家光)の乳母の募集があり、稲葉正成の妻お福が乳母に選任された。第3子正勝の誕生後でお福25歳ころとみられる。
   乳母の採用
 一般に諸大名の乳母の選任は公告され、村方(農村)の女性が「御乳持」に選ばれ、給金と扶持が与えられるのが一般的であった。給金の水準は今日のサラリーマン初任給よりやや高かった。
 幕府大奥の場合は御家人(武家)以上の家格の者から選ばれたようであるが将軍には子供も多く乳母の充足には苦労も多かった。
 お福は正勝を連れ大奥入りしており子の処遇につき当時、お福の一存で決まったとは考えづらくまた、竹千代が乳離れしても帰郷していない。お福は乳を与えるだけの「御乳持」ではない。養育にも携わる「御育て」として採用されている。正成をはじめ正成との間に生まれた子供たちは皆出世しておりお福が陰日向になって支援したからこそ成りえたと考えられる。
 そうすると、「お福は浪人の夫正成を見限って離婚し、勝手に応募をして採用された」とする説を始めとした様々の推論は総じて的確なものとは思われない。
 お福は幕府と正成をはじめ稲葉家と京都所司代との交渉を経て夫正成と離婚し、江戸に向かったと考える方が合理的と思う。乳母選考に当たってはお福の出自、書道・歌道・香道などの心得(父利三の死後、お福は親戚筋の公卿三条西公国(きんこく)(藤原氏系)に養育され諸道の心得があった)など生育経過、夫正成の戦功等々が評価され採用されたと考えられる。
 諸大名においても乳母の採用は公的手続きを得て乳母の実家と諸手当等につき相談、承諾の上、決定されており、実子の処遇を含め乳母が勝手に募集に応じることはないと思う。お福の場合のみイレギュラーであったとは考えづらい。むしろお福自身の乳母承諾の経緯について不明なところが多く、今後の課題として考究されてしかるべきであろう。
乳母お福の意地と愛
   乳もらい
 先の大戦前後特に、農村部では粉ミルクが普及しておらず母乳の足りない乳児は「乳もらい」と言うて乳母のもとに通う風があった。長じて子が独立しても盆暮れのあいさつを欠かさず、外に出た者も帰省の折には乳母のもとに一番に駆けつけ、終生‘お母さん’と呼び乳母を慕う人がいた。また乳母も分け隔てなく我が子同様に育てた。
 お福はわが身が病床にあっても服薬を絶って虚弱の竹千代が丈夫に育つよう祈願し続けた。
 長じて家光は病床にあったお福を訪ね、衰弱したお福を抱き起こして薬を飲ませたという。お福は感涙に咽びながらわが身を袖に隠し薬を吐き出したという逸話がある。死の淵にあってもなお家光とともにあるお福と家光は終生、固い絆で結ばれていのだろう
 お福は秀忠の嫡子竹千代の乳母となった。竹千代は未熟児で虚弱の子供らしかった。秀忠と母お江(父浅井長政・母お市の方(織田信長の妹))は利発な次子国松の方を溺愛したという。憂慮したお福は駿府に出向きお江らの態度を改めるよう家康に直訴したという。真否のほどは不明。負けん気が強い性格のよく似た女性同士の逸話としてしばしば歌舞伎などの題材になることがある。
 さらに、竹千代の出自について、お福が産んだ家康の子という説もある。竹千代は後の第三代徳川将軍家光である。
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大坂の陣と豊臣家の滅亡
 関ケ原合戦で徳川方が勝ち十数年を経過しても豊臣家が消滅したわけではなかった。
 秀吉の遺児秀頼は関ケ原合戦で三成など奉行層の重臣を失い大名クラスの重臣は片桐且元の一人となっていた。
 秀頼は京都方広寺の造営など寺社の整備に熱心でまた、淀殿の徳川家への対抗心も薄れてはいなかった。
 家康は僧侶や学者を動員し
方広寺
方広寺の鐘銘
秀頼が造営した京都方広寺の釣鐘(右上)の「国家安康」などの銘文(右下)に難癖をつけ、大坂の陣の引き金となった。且元は弁明に奔走したが幕府に内通の疑いから排され、大坂(冬の陣)に駆けつける大名は一人もおらず、豊臣方は浪人の寄せ集めの陣容だった。
 続いて起こった慶長20(1615)年5月の大坂夏の陣において、家康は真田幸村に討ち取られる寸前の窮地に追い詰められ自刃を覚悟した時があったが大坂城が炎上し秀頼、淀殿らが自刃し難を免れた。逃亡した秀頼の側室の子国松は捕らえられ六条河原で斬首され、豊臣家は滅んだ。関ケ原からわずか15年、秀吉の裔は木の葉のようにゆらゆらと鴨川に身を任せるようにして逝った。
 秀頼に嫁いだお江の愛娘千姫は大坂城から脱出。お江は秀頼とともに自刃する姉淀殿の最期にこの世の儘ならぬ不条理に涙したに違いない。
 お福にとっても、大坂夏の陣は父利三が秀頼の父秀吉に処刑されてから33年目の夏だった。また、お江やその姉淀殿(茶々)にとっては、お福の父利三(光秀の重臣)は叔父信長を討った仇。なんとも複雑な人間模様が焼け落ちる大阪城の炎に、それぞれの思いが幾重にも重なり炙り出されたというべきであろう。
 関ケ原合戦を制した家康は江戸幕府を開き、大坂の陣で秀頼を討った。江戸城に凱旋し名実ともに天下一となった家康は、城を見上げながら満面笑みを浮かべたことだろう。
 家康は在任2年余で将軍職を嫡男秀忠に譲った。しかし家康が政界を離れることはなく大御所として幕府の基礎固めに意欲的だった。家康の政権構想は、法度をもって朝廷、寺社を管理下に置き、天皇の外戚として政権の安定化を推進しつつ、大寺社の宗教的権威に対しても幕府が関与するいわばこの国を徳川の掌中に収めることだったのか。
1 黒井城の記憶とお福の生きた時代
2 本能寺の変と山崎の戦-お福の彷徨-
3 関が原合戦とその前夜(田辺城の戦)
4 江戸幕府開設と豊臣家の滅亡(大坂の陣)-乳母お福の選任と意地-
5 朝廷・幕府の抗争と禁裏の諸事件
6 お福謁見の真相と女帝の即位の狭間