黒井城散歩
1黒井城の記憶とお福の生きた時代-兵庫県丹波市春日町− |
京都府の北西部に丹波というところがある。‘果てしない山と深い谷’が連なるところらしい。そこは松茸、栗、黒豆などの産地として選択的な輝きを放ちまた、明智光秀と娘ガラシャ、細川幽斎と忠興父子ら戦国の世の夢跡をとどめるところだ。
遠い昔、農地を分け与えられた人々がコメや地方の特産物を郡家や国庁に納め、華やかな帝都を築いた中央集権国家が存在した。
しかし国の要であった班田収受の農地制度が徐々に崩れはじめた。上層農民のなかには河川の段丘や峡谷、山裾の湿地を埋め田(開墾地。埋田、梅田とも)にして皇親や摂関家(藤原氏)、大社大寺に寄進して或いは荘官として支配地に君臨し、次第に国司や守護、地頭の実検を拒むようになる。地方にはそうした国人と呼ばれる支配者が城郭を構え合戦を繰り返し、有力武士に成長した者によってこの国は統一されていった。
丹波の国人たちは深い谷と迷路のような道を天然の要害に、支配地の山々に城や砦を構えた。鎌倉・室町、戦国時代から安土桃山時代に至っても国人が跋扈する丹波の平定はそう容易いことではなかった
天正3(1575)年9月、天下統一に燃えた織田信長は配下の明智光秀や細川幽斎に丹波・丹後、羽柴秀吉に中国の平定を命じ、光秀・幽斎の丹波・丹後攻めは毎年のように執拗に行われた。しかし国人の抵抗は激しく特に、黒井城(丹波市春日町)の攻略は容易でなかった。城は標高356bの山頂にあった。頂上を削って本丸、二の丸、三の丸を階段状に造り、帯曲輪で囲った天嶮の
山城だった(写真左参照)。帯曲輪の周囲は花崗岩の節理が天を衝き、転べば傷つき、敵の攻撃を阻む。
黒井城主は悪右衛門と自称した赤井(荻野)直正。領地は天田(福知山市)・何鹿(綾部市)・氷上(丹波市)の各郡に及んだ。双方、勝ったり負けたりするうちに天正6(1578)年、直正が病没。翌天正7(1579年)年6月に赤井氏の盟友・波多野氏の八上城、8月には黒井城を落とし、光秀はその年のうちに信長に丹波の平定を報告するに至った。
丹波平定後、明智光秀の重臣斎藤利三が黒井城に入り、氷上郡一帯(兵庫県丹波市)を支配した。黒井城は北丹波の主城福知山城に近く、その南方を固める重要な城だった。
利三は近江坂本(大津市)から妻を呼び寄せ、天正7(1579)年、黒井城の居館(陣屋(現興禅寺))でお福(長じて福、春日局とも。以下、「お福」と総称する)が誕生し、幼年期を黒井城で過ごした。
陣屋の門口でヨチヨチ歩きのお福が父利三を追いかけ遊ぶ姿が浮かんで消える錯覚を覚える。お福の生涯をたどってみたい。-令和7.8.29-
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