兵庫
黒井城散策 4朝廷・幕府の抗争と禁裏の諸事件
諸法度の公布と 朝廷・幕府の争い
 今日、法律は国権の最高機関によって立法される。
 昔、武士の台頭によって朝廷と幕府との役割分担に変化が生じると両者間に争いが生じ、幕府が天皇の権限行使に制限を設けることは自然の成り行きだった。
 まだ大坂の陣の余韻が冷めやらぬ慶長18(1613)年に幕府は諸法度を公布した。続いてく慶長20(1615)年7月に、「禁中並公家中諸法度」を公布。法度は16条からなり、@天皇を政治から分離(天子諸藝能之事、第一御學問也…第1条)、武家と公家の官位の分離(武家之官位者、可爲公家當官之外事。第7条)、 A改元は漢朝の年号から選定(改元、漢朝年號之内、以吉例可相定…。第8条)、B武家伝奏など幕府の命令に堂上家など公家が従わなければ流罪(關白、傳奏、并奉行職事等申渡儀、堂上地下輩、於相背者、可爲流罪事。(第11条))C紫衣が許される僧侶の勅許がみだれている。相応しい僧侶に紫衣を与えるべき。(紫衣之寺住持職、先規希有之事也。近年猥勅許之事、且亂臈次、且汚官寺、甚不可然。於向後者、撰其器用、戒臈相積、有智者聞者、入院之儀可有申沙汰事。(第16条))等々を骨子とし、文末に二条昭実(にじょう あきざね)(公卿)、秀忠、家康の連署がある。
 幕府は二条城に家康、秀忠臨席のもと五摂家、公家を集め法度を発表し、武家政権の権力を示した。
 法度の公布をを見届けるように、元和2(1616)年4月、家康は亡くなった。享年75歳。
徳川和子の入内と禁裏でおこった諸事件
 家康は慶長19年(1614年)4月、朝廷に申出て秀忠の子和子の入内の宣旨を得ていた。大坂の陣や家康の死などによって入内が遅れる中、天皇と女官四辻与津子に皇子賀茂宮(かものみや)や皇女がいることが判明し、幕府は和子の入内を問題視するようになる。
 その問題に併せ、公卿6人が禁裏に白拍子を入れ乱行に及ぶなどの事実が発覚し、幕府は関係者を配流などに処した。それを幕府の越権行為として怒った後水尾天皇は譲位を漏らした。幕府はこの事態が幕府の横暴と映ることを怖れたのであろう。藤堂高虎が朝廷を恫喝し、天皇の動きを抑え事態は収束した。高虎は32万石の大封の大名。人事にも有能な人物のようだった。 
秀忠、家光の上洛と行幸の裏側
 元和6年(1620年)6月、和子は晴れて入内し女御となった。後水尾天皇25歳、和子14歳だった。
 その3年後の元和9年(1623年)6月、秀忠は将軍宣下を受け、嫡男家光とともに上洛。禁裏御領として1万石を寄進した。同年11月、皇女・女一の宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生した。
 翌寛永元年(1624年)11月、女御和子は中宮に冊立され、寛永2年(1625年)9月には女二の宮が誕生した。しばらくして中宮の懐妊が伝えられ朝廷・幕府に慶事が続く中、寛永3年(1626年)9月には将軍秀忠と家光が上洛し、二条城に後水尾天皇、中宮和子、女一の宮等の行幸が行われた。宴は5日間に及び天皇・公家に銀196000両(255億円。1両13万円換算)が進上された。
 さらに寛永3(1626)年11月(13日)には中宮和子に高仁親王が誕生。しかし寛永5年(1628年)、高仁親王は夭折し、この年に誕生した男二の宮も誕生直後に没した。中宮所生の2人の皇子の夭折が相次ぎ、驚いた幕府は朝廷に葬儀を打診したが、亡くなった日の翌日に埋葬されたという。不幸が重なり、なんとも不運な男宮たちだった。
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4 朝廷・幕府の抗争と禁裏の諸事件
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