京都の東山に青蓮院という天台宗の寺がある。寺はもと比叡山東塔にあった青蓮坊。平安時代末期、青蓮坊の第12代行玄大僧正のとき三条白川の地に下り、鳥羽上皇、皇后美福門院が当坊に帰依した。上皇の皇子覚快親王は青蓮坊に入り行玄に師事。寺は門跡寺院となった。
行玄の弟子となった覚快法親王は後に行玄に続く第2代門主に昇任。寺は仙洞御所の祈願所とされ爾来、門跡の法燈は比叡山法親王等の皇族や5摂家によって受け継がれている。
鎌倉時代になると鳥羽法皇は今の門跡の在地・粟田に殿宇を建立した。
青蓮院門跡は粟田御所、青蓮院宮とも呼ばれる。天明8(1788)年、皇居炎上の際後桜町上皇の仮御所としてまた、嘉永7(1854)年には皇女門院の仮御所となった。寺構えの精美、重厚さも加わってそのように呼ばれるようになったのだろう。
五月晴れの令和5年5月3日、三条京阪から神宮道を歩き、青蓮院門跡、華頂山(知恩院)、丸山公園に遊ぶことがあった。通りに面した門跡の殿宇の周りにクスの大木が4本、大枝を伸ばしている。降りそそぐ陽を浴びて、クスの枝葉が通りにその影を映している。大きな樹冠は日傘。傘下は行き交う旅人のオアシス。樹勢は今なお盛ん、東山の景観維持にもクスは大いに貢献している。
青蓮院門跡のクスの生い立ちに諸説がある。「親鸞(浄土真宗の開祖)のお手植え」、「鳥羽法皇が殿宇を建立した時分に植樹した」等々。親鸞が青蓮院門跡の慈円僧正について得度したのは9歳の春。その記念樹か。しかしクスは門跡の殿宇に沿って植えられていてこの説も捨てがたい。いずれにせよクスの樹齢は約800年、樹勢はいまなお旺盛である。
門跡はその長い歴史のうちにその大部分が焼けまた昭和期にその一部が破壊されるなど悲運を被ることもあった。しかしクスは底冷えする京都の冬にも負けず棲みつづけている。
クスは暖地を好む先史外来植物であるらしい。樹齢を重ねると丸木船にもなる。船底はヨットに似て帆が風をはらむと構造船をこえるスピードが出る。大陸から環海を自由にすべり或いは南方から島伝いに漂着する人々もいたであろう。クスはその移動手段を提供したばかりか漢方薬剤、殺虫剤、建材、仏像の部材等々に重用された。これほど人の生活に深くかかわってきた樹木はない。
国内のクスの頂点木は鹿児島の蒲生神社の大クス。幹回り24メートル。全国の樹木中の頂点木でもあるらしい。大クスの前に立つと己がちっぽけさに身が固まってしまう。徳島・加茂の大クスは車窓から見ても樹下から見上げても樹冠を天空に映して美しい。応神天皇の生誕地と伝えられる福岡・宇美の八幡宮では30本の大クスが群立し日本書紀の記述を彷彿とさせまた、地域の人々の信仰も篤い。福岡の矢部川では大クスが並木のように延々とつづき堤防を固め、破堤対策にも活用されている。こちらのクスは地域の生き神様であるだろう。−令和5年5月3日−
宗教諸派において門主等指導者が政権を担う家系の縁者であったりまた、庶民のみならず皇族や将軍・大名が諸派に帰依することも自然であろう。
青蓮院門跡の南隣の華頂山(知恩院)25世存牛は徳川家康の高祖父であり、徳川家の菩提所。同院の造営にも熱心だった。三門は国内最大の木造建築物。釣鐘は80トンにもなるという。ケタ違いの巨大さにただただ目を見張るばかりである。
青蓮院においては室町時代に門跡義円(足利義満の子)が第6代将軍(義教)に就くなどした。両院は地続きの上、浄土宗祖法然は比叡山(天台宗)で研鑽を重ね開宗した人で青蓮院門跡とも浅からぬ縁がある。承元の法難(1207年)後も両派の教義上の論争は続いたかと思われる。江戸時代になると家康は青蓮院の領地を割き知恩院の諸堂の建築、整備を行うなどしている。ここに幕府と門跡との緊張関係は極まったことだろう。
各宗派の紫衣(しね。律令時代、官の最高位は紫冠だった)の着用は青蓮院門跡の許可を要した。親鸞(浄土真宗の祖)は青蓮院門跡で得度を受け、本願寺の新門主は近年に至るまで当院で度戒を受けている。
書でも青蓮院門跡は御家流(青蓮院流)を称した。宸殿各室の襖子には土佐、狩野、住吉など各派名匠の筆跡をとどめ、庭園は相阿弥の作。国宝など寺宝を数知れず所有する。
青蓮院門跡は仏教界における権威と文化芸術の粋を極めた寺。今多くの観光客の目を楽しませている。
政治権力を武家が握ると、青蓮院門跡は大なり小なりチクリ、チクリと意地悪を受けつづけたことは日本史を解くまでもない。特に徳川幕府の行いは大変、門跡を困らせることもあったようである。−令和5年5月3日−
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