覇王の記憶(網野銚子山古墳)-京丹後市網野町網野- |
京都府の北部に京丹後市網野町がある。そこは日本海に突き出た丹後半島の北端経ヶ岬の西海岸を下った間人の南に所在する。小雪が舞い、うらにし(西風)が小浜の端を洗い、浮きつ沈みつ白波を切って港に向かう小舟がみえる。
町は海岸線に沿って拓け、切妻の大屋根は機屋の家並であろう。水田はほとんど見えず、背後に切り立つ山腹を拓きチュウリップ、メロン、スイカ、サツマイモ、柿などの花卉や果物を栽培し、カニは当地の名産。
町の背後の丘陵にある銚子山古墳に向かう頃、ちらちらと降る雪は止み、陽が射し青空がのぞく。
小道を往くほどに、丘陵の頂上に着くとそこはなだらかな畑地が広がる別天地。日本海に向かって中央に全長201メートルの銚子山古墳が天空に浮かんでみえる。周壕の西には古墳が2基、銚子山古墳に寄り添っている。銚子山古墳の築造年は4、5世紀頃とされ、標識的な前方後円墳。日本海側かつ京都府下最大の古墳である。古墳は巨大。なだらかな曲線を天空に映して美しい。
「食糧難で皆が飢えていた時にも、私たちは塚を掘り返してサツマイモを植えることはしなかった。豪族の墓と聞いています。」と農家の人。これだけ巨大で高所に展示されたように見える古墳は日本海を往来する船人の目を奪ったことであろう。
網野銚子山古墳が築造された時代、日本の社会経済は大和王権や当地では有力氏族によって引導されていたにせよ、巨万の富なくして古墳の築造はできない。応神天皇陵の築造費796億円(墳丘長486㍍)の試算結果もある。網野の銚子山古墳のそれも遜色ないほどの巨費を要したことであろう。
大和王権をなす豪族の支族や配下の支配者で あれば、氏長を憚ってこれぼどの古墳は造れないはず。日本書紀など国史によれば、丹後(8世紀初頭に旧丹波を分割)は日本の曙の時代に、その外戚として天皇家と深いかかわりをもった名族が住みなしたところだ(丹後の王国参照)。中央豪族とは一定の距離を保ちつつ朝鮮半島諸国の民乃至同族の彼らと交易し織機を移入し産業を興し、絹織物はもとより、武器や農具等鉄の加工品を生産し、大量の重量物を船に載せ諸国に搬送し富を蓄えたコンツェルン。丹後王権(王国)の存在を前提としなければ合理的な説明がつかない。銚子山古墳の被葬者はそうした環海の覇王の一人だったと思ってもみる。
銚子山古墳の築造には膨大な労働力が必要。3世紀ころの倭国について、魏志倭人伝は「祖賦を収め、邸閣あり」と伝えている。網野の豪族においても税(稲等)を課し倉庫に保管したことがわかるが、途方もなく膨大な時日と労働力を支配地から徴集することはほとんど不可能。 環海に漕ぎだせば懐かしい故地がある。莫大な金品を投入し、朝鮮半島南部の伽耶(1~6世紀)の諸国から労働者を集めるなどしてこの巨大な銚子山古墳はできたのではないだろうか。
大和王権は畿内の有力氏族の連合政権。王を立て政務は氏族が分掌し政権をになった。神話時代から歴史時代に遷移したのは垂仁天皇のころで西暦3世紀後半ころであるらしい。そのころ倭に小さな政治集団が群立していたが畿内の王権によって統一されていたわけではなかった。大和王権の支配が一体どこまで及んでいたのか、実はよくわかっていない。卑弥呼の時代から降ること3百年ほど経て飛鳥・藤原京から国家統一の火種が燃え始め、唐制に倣って大宝律令が施行され、ようやくわが国は真の中央集権国家体制を確立した。それはまた、氏族政治から官僚政治への転換であった。時の政権は氏族の古記や伝説など国内外の資料をもとに日本書紀などの国史や古事記などを編纂し、国際デビューに華を飾りもした。しかし、記紀の行間にあえて隠された歴史や不知の事実が潜んでいることもあり得ないことではない。
考古学的事実は歴史の真実を正直に伝える語り部。件の大和王権の版図につき、稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の鉄剣や江田船山古墳(熊本県玉名郡菊水町)出土の太刀銘文から推し、5世紀中ごろまでには大和王権(雄略天皇)の勢力が関東から九州にまで及んでいたとする説がある。しかし当時、それら被葬者の配下に、文字を読み書きし、鉄剣等を鍛造し、象嵌技術などを駆使する工人がいたかどうか、はなはだ心細い。倭王武・雄略天皇は中国の「宋」に一品大将軍(開府儀同三司)の任爵を求めたが安東大将軍(二品)の称号を得るに止まっている。倭の政治環境について中国王朝の諜報組織はそれぼど軟でなかったと思う。倭国の統一を中国にアッピールする必要上、地方豪族にばらまいた贈物であった可能性も否定できない。銘文の調子がなんだか良すぎる感なしとしない。しかし飛び切り高価な贈物をもらった豪族は服従しないまでも典曹人(文官。江田船山)だの杖刀人(天皇の親衛隊。稲荷山)だの賞されて固辞するまでもなかったはず。大切に保管し、副葬した豪族もいるだろう。将来、同旨の鉄剣等が諸所で発見されれる可能性もあるだろう。
菊池川沿川の江田船山古墳の上流に磐井(磐井の乱)の前方後円墳が所在する。磐井は大和王権に服属しなかった。畢竟、このことは大和王権は武力をもってしても地方豪族は容易に頭を垂れることはないことを再確認したことだろう。そうするとプレ大和時代は無論、五王の時代に至ってもなお、大和王権に従わない氏族勢力が丹後(旧丹波)や但馬等に存在し、巨大前方後円墳や円墳を築造したと考えられる。
日本書紀など古記を探ると網野は2~4世紀には、明神山古墳など巨大古墳の被葬者は王国を築いていた環海の大王ではなかったか。丹後の初期の古墳の形状や副葬品は伽耶のそれと瓜二つ。丹後の盛期を3世紀と考えれば網野銚子山古墳を元とする 前方後円墳はひっとして日本最古のそれといわれる大市墓(写真左。墳丘長278㍍。3世紀中~後期。被葬者は卑弥呼に例えられるヤマトトトヒモモソヒメの説あり。桜井市在)と同時期ないしそれより古い時代の古墳の可能性も否定できない。大市墓は宮内庁所管の墳墓。発掘調査が行われていないので仔細不明であるが、築造年代は網野銚子山古墳が先になる可能性もあると思う。
丹後の弥生時代 |
弥生時代特色は稲作。はじめ墓制や弥生土器、管玉・勾玉等の装飾品、鏡などとともに北九州に渡来した稲作は、灌漑や鉄製農具、鏡・銅剣・銅戈等の祭祀用具の製作、墳墓の築造など諸分野に渡来人の技術移転を得て一層、進んだことであろう。
稲作伝来のころ丹後は地の利の違いから北九州のように朝鮮半島の伽耶の文化の写し絵とはならなかったが、鉄製農業資材や絹織物の生産を通じ巨万の富を得たのであろう。日吉ヶ丘地区の方形貼石墓(弥生墓。京都府与謝郡与謝野町)は長辺約32m、短辺約20m.日本最大級。
北九州の弥生墓
〇金隈遺跡
〇伊都国の王墓 |
丹後の歴史は途方もなく古い。後年、大和の小豪族であった藤原氏は、名族蘇我氏と姻戚関係を築くなど大豪族の体裁を整え躍進した。不比等は大宝律令や日本書記の編纂に深くかかわった人物。編纂当時、太政官の最高位の権臣でかつ、法律家であった。日本書記も彼が編纂したのではないか。そんな疑問が生じるのも、不比等は当代一の政治家かつ法律家であるばかりか藤原氏の始祖であるから、本邦をも掌中におこうとした陰謀が見えるのは私ひとりの妄念だろうか。
藤原一族は平城遷都(奈良市)を主導し、遷都の直後の和銅6(713)年に旧丹波国を丹波、丹後に分割した。丹後は蘇我氏縁の故国、藤原氏は蘇我氏と縁戚を結び浮上した氏族。丹後の前史を知悉していたからこそ、旧丹波を分割し、丹後の孤立化を図り、北の脅威を抑止して平城京の守備に万全を期したのではなかろうか。丹後はたぶん、古記等の記録から景行天皇治世のころから大和王権に接近したとみられ、飛鳥、藤原京から大海に漕ぎ出た時の権臣・藤原氏をしてその財力や多くの前方後円墳の威容に例えようのない重圧と脅威を感じたことであろう。当時の環海の政治事情も加わって、丹後の脅威に先手を打った意図が見え隠れする。
墳丘から大海原を見渡せば、遠く離湖(周囲3.8㌖)に出入する伽耶の国々の交易船の帆が穏やかな湖面に蝶のごと飛び交う幻影がみえる。-令和7年2月- |
上古(古墳時代)の装い |
銚子山古墳が造られた時代、日本人の服飾の仔細がわかると現地に遊ぶ楽しみも増すというもの。
古墳の中には人物埴輪が伴うものがあってそれらの資料から当時の装束を復元し「二千六百年風俗図史(昭和16(1941)年発行)を著した人に吉川観方(風俗史家、画家)いう人がいた。写真に収められ装束は群馬県伊勢崎市豊城町横塚等の古墳から出土した埴輪から復元したもので随所に確かな比較考証力見てとれ感慨深い。
件の横塚出土埴輪に島田髷と類似の髪と額の上に不明の剥落痕があり吉川氏はそれが櫛であることを群馬県太田市世良田町出土の女性埴輪等から突き止め確定したのだろう。櫛をさし、周りに花がめぐらせてある。髪型は普段は島田髷。晴(儀式、宴会等)の時は垂髪というのが定説。形象化された肢体や服装を復元することはそれほど容易いことではない。吉川氏は埴輪から見事 に再現された。写真(二千六百年風俗図史(昭和16(1941)年)から引用)をみると、驚くほど現代的。美の原点は今も昔もそう変わらないのだろう。
服は上下区分式で下は裂地の「モ」で足元まで垂らし腰紐で結んである。上衣はモの下に着込み、重ね着して幅細の帯で〆、その上に肩から両腕に領巾という薄地の裂を掛け垂らして地を曳く。
男子の服装(写真右。二千六百年風俗図史(昭和16(1941)年)から引用))は皆、頭は美豆良につくり、衣服は女性と同じ上下区分式で布は絁、麻などで織った。 上衣は上頸、垂頸などにつくり、腰部に帯を〆め、下は膝の下で紐でくくり止め上部をたるませる。袖は筒袖。長いものは手首に玉を結ぶ。履物は履。皮、布、苧麻等で編む。耳に耳輪、頸に勾玉、管玉などを連ねて一重、二重に掛け、手に釧、足にも玉を括った。
私たちは古墳の発掘現場などでしばしば被葬者の装飾の豪華さに驚くが同時に、日本人が拘った風俗の探求と復元に執念を燃やし続けた吉川氏の偉業を称えねばならない。-令和7年3月- |
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