京都
由良湊−宮津市由良−

 京都北部に、由良川がある。日本海に流入する総延長146キロメートルの河川。流域に福知山、綾部などが所在する。川沿いに縄文、弥生の遺跡が連なり、中流域に所在する桑飼下遺跡(縄文。舞鶴市)、聖塚(方墳)、円山古墳(円墳。聖塚とも綾部市)など京都を代表する古墳などはこの地方の気の遠くなるような歴史の象徴であるだろう。
 由良川の河口のまち神崎(右岸)・由良(左岸)は湊をなし水運を担ったまちだった。河口から40数キロ、福知山まで塩、乾物を運んだ。藩政期には西回り航路が拓かれ、丹後一帯の要港に北前船が出入して大いに栄えた。特に、由良は船頭やカコ(水主)になる者が多くいて全国に雄飛した。
 由良湊の最盛期、北前船の隻数は130艘(享保年間)をかぞえた。湊港で日用品や肥料、青石までも買込み、口銭を得る買船の本領を大いに発揮した。今、由良の湊は人口1000人余、碧い日本海のリゾート地として栄えている。
 近年、京都丹後鉄道由良駅近くに「北前船資料館」がオープンした。船頭やカコが由良湊の金比羅神社に奉納した北前船(縮尺十分の一)や絵馬などが展示され北前船の華といえそうだ。とりわけ、船絵馬は質、量ともに全国の北前船展示施設中の白眉、一見の価値がある。館内に足湯や食堂・喫茶などがある。楽しみながら北前船が活躍した時代に浸ることができる。


 由良、神崎など若狭湾沿岸からその西側に南北に突き出た丹後半島やその付け根に当たる周辺地方を「丹後」と呼ぶ。もと「丹波国」に属し、呼び名の発祥地であったが、和銅年間の令制改革によって丹波が分割された際、「丹後国」となった。 

安寿と厨子王(由良町)
 丹後はまた、伝説に彩られたまちだ。
 「浦島太郎」「大江山の酒呑童子」「安寿と厨子王」「徐福伝説」「天女の羽衣伝説」「間人皇后伝説」など枚挙に暇がない。「安寿と厨子王」は森鴎外が説経節からヒントを得て小説にし、溝口健二監督は「山椒大夫」(「安寿と厨子王」の別題)を映画化しヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞(昭和29(1954)年)した。その伝説の舞台が由良湊だ。
 筑紫に左遷された父岩木何某をたずね、陸奥国(今の青森県)を出立した安寿と厨子王は越後で丹後由良の山椒大夫にかどわかされ母と別れ別れとなり、連れ去られた由良で二人は潮汲に酷使され、逃亡した厨子王は艱難困苦の末、都にのぼり国司にまで出世し、山椒大夫を討ち、佐渡で母子が再会するという物語。日本海という壮大な舞台でくりひろげられる絵本に少年少女は世間を感じとり、盲目となって鳥追いする母のすがたに平和のありようを脳裏に焼きつけた。 
 一説よると、山椒大夫は三荘大夫とも伝えられ、荘園を三つ持つほどの長者だった。よほど人手が足りなくとも人買いに日本海を駆け巡っていたようにも思えない。しかし謡曲に人身売買を思わせるものがいくつかあるので、むかしこの国に人身売買がなかったともいえない。果たして庶民は近年まで人さらいを恐れ、憎んでいたではないか。だから勧善懲悪の説経節やさまざまのメディアに酔い痴れるのだ。
 説話山椒大夫の設定は平安時代であるが、果たしてこのころ丹後の船人は普段、越後や陸奥あたりまで航海していただろうか。 3年ほど前、青森県出身の禅宗の教戒師にお会いした際、「地元青森に、丹後の人が来ると良くないことがおこるという言い伝えがあります。丹後を訪れ地元の人に叱られるのではと内心、気にかけていました。しかし、丹後の人にお会いしてそのような話を知っている人もなく、歓迎していただいた。取り越し苦労でした。」と話された。
 河村瑞賢が北前船の西回り航路を開拓したのは17世紀。はるか平安時代に佐渡や青森にまで丹後人が出入していたとは考えにくい。北前船の時代になると丹後人は買船しながら口銭を稼いで東北、北海道にまで行き来したから丹後人は陸奥にまで知られるようになっていただろう。山椒大夫はたぶん、北前船時代の創作ではないかと思うのだが・・・。説話の時代設定に疑問は尽きることはない。
 由良湊には、安寿と厨子王の潮汲みの浜や山椒大夫屋敷跡など数多くの伝承地がある。由良の戸から北前船の船影が現れては消える幻影が見え隠れする。−令和2年1月−