京都
由良湊−宮津市由良−

 京都北部に、由良川がある。日本海に流入する総延長146キロメートルの河川。流域に福知山、綾部などが所在する。川沿いに縄文、弥生の遺跡が連なり、中流域に所在する桑飼下遺跡(縄文。舞鶴市)、聖塚(方墳)、円山古墳(円墳。聖塚とも綾部市)など京都府を代表する史跡はこの地方の気の遠くなるような歴史の象徴であるだろう。
 由良川の河口のまち神崎(右岸)・由良(左岸)は湊をなし水運を担ったまちだった。河口から40数キロ遡り、福知山まで塩、乾物を運び、河床が浅くなると高瀬舟に積替え大島湊(綾部市)まで遡った。

 北前船は買積船。菱垣廻船や樽廻船、城米廻送と違い船頭の買取によって物資を運送した。海難に遭うと共同海損にならず丸損。しかし事故さえなければ買価の2倍以上の儲けになったから、北前船はバイ船ともいわれた。

 北海道から大坂まで西回り航路が拓かれると、丹後一帯の要港に北前船が出入りするようになる。宮津を中心に由良、栗田の湊も北前船が廻送して丹後の海運は大いに栄えた。宮津には大船持が出現し、由良の船頭、カコ(水主)が丹後船を支えて全国に雄飛した。北前船は堅牢に造られた弁財船。日本海の荒波と風をもろともせず廻送し、帆の改良によって1年1航海から2往復する北前船も現れた。
 しかし、日本海を襲う季節風はしぶとく、冬場は湊に停泊。冬を越した日本海岸の北前船は品物を買いそろえると一斉に西下する。麦秋のころ白い帆に風をはらんが北前船が群れをなし関門海峡をぬけ周防灘に入ると、待ち構えていた上関、室津の商人は北前船めがけて一斉に伝馬船(まねき伝馬と言った)を漕ぎだし下あきないをする。商談が済むと港まで北前船に曳かれていった。そういう群れの中に由良船もあったに違いない。
 由良湊の最盛期、北前船の隻数は130艘(享保年間)をかぞえた。湊港で日用品や肥料、青石までも買込み、口銭を得る買船の本領を大いに発揮した。今、由良の湊は人口1000人余、碧い日本海のリゾート地として栄えている。
 近年、京都丹後鉄道由良駅近くに「北前船資料館」がオープンした。船頭やカコが由良湊の金比羅神社に奉納した北前船(縮尺十分の一)や絵馬などが展示されている。船絵馬は質、量ともに全国の北前船展示施設中の白眉、一見の価値がある。館内に足湯や食堂・喫茶などがある。楽しみながら北前船が活躍した時代に浸ることができる。

丹後の風土と民話の狭間
 由良、神崎など若狭湾沿岸からその西側に南北に突き出た丹後半島やその付け根に当たる周辺地方を「丹後」とよぶ。もと「丹波国」に属し、呼び名の発祥地であったが、和銅年間の令制改革によって丹波が分割された際、「丹後国」となった。
安寿と厨子王(由良町)
 丹後は伝説に彩られたまちだ。
 「浦島太郎」「大江山の酒呑童子」「安寿と厨子王」「徐福伝説」「天女の羽衣伝説」「間人皇后伝説」など枚挙に暇がない。
 「安寿と厨子王」は森鴎外が説経節からヒントを得て小説山椒大夫を書き、溝口健二監督は「山椒大夫」(「安寿と厨子王」の別題)を映画化しヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞(昭和29(1954)年)した。その伝説の舞台が由良湊だ。京都丹後鉄道宮津線由良駅から約2キロ、国道178号線脇の「オリーブ紅葉公園」入り口付近に分限者に買い取られた安寿と厨子王像(写真上)がある。視線を由良川河口に向けると、鉄橋を行くディーゼル車は一幅の絵画。しかしまた、ディーゼルは時は違っても安寿と厨子王が感じたであろう不安を訪れる旅人に感じさせ、何とも心細くちっぽけな姿して日本海と一つになってみえる。
 さて伝説では、筑紫に左遷された父岩木何某をたずね、陸奥国(今の青森県)を出立した安寿と厨子王は越後で丹後由良の人買いにかどわかされ母と別れ別れとなり、連れ去られた由良で山椒大夫に買い取られ、二人は潮汲に酷使され、安寿は入水、厨子王は逃亡し都にのぼり艱難困苦の末、国司にまで出世し、山椒大夫を討ち、佐渡で母子が再会するという物語。
 日本海を舞台にした壮大、悲痛な伝説は絵本になり、少年少女は世間を感じとり、盲目となって鳥追いする母のすがたに平和のありようを脳裏に焼きつけた。 
 一説よると、山椒大夫は三荘大夫とも伝えられ、由良川沿岸に所在の由良、岡田、河守に荘園を持つ長者だった。丹後由良に人買いがいて分限者山椒太夫に人を売る者がいたとも思えないが謡曲に人身売買を思わせるものがいくつかあるので、丹後いやこの国に人身売買がなかったともいえない。果たして私たちは近年まで人さらいを恐れ、憎んでいたではないか。だからこそ地域の伝説にとどまらず、説経節や謡曲、小説、絵本などさまざまのメディアに焼き付けられ、聞き入り或いは読みもしたのだ。
  3年ほど前、青森県出身の禅宗の教戒師にお会いした際、「地元青森に、丹後の人が来ると良くないことがおこるという言い伝えがあります。丹後を訪れ地元の人に叱られるのではと内心、気にかけていました。しかし、丹後の人にお会いしてそのような話を知っている人もなく、歓迎していただいた。取り越し苦労でした。」と話された。河村瑞賢が北前船の西回り航路を開拓したのは17世紀。丹後人は北前船を滑らせ、買船で口銭を稼ぎながら東北、北海道にまで行き来した。陸奥に向かう由良湊発の廻船もあったであろう。
 しかし、伝説の舞台はそれより数百年前の平安時代。丹後人は青森や佐渡にまで船出していたのだろうか。由良湊は由良川の左岸に拓けた湊。そこは北前船が出現する以前から古墳が築かれ、国分寺跡の伝承地が存在し、丹後の一大都市を成していた。「安寿と厨子王」物語は地元はもとより日本全国の少年少女にすんなり受け入れられた。
 丹後地方の女性や子供の日常は悲惨なものであった。味土野(ガラシャ夫人隠棲地)では可愛らしいイチリンソウを「嫁殺し」と言って春の到来を恐れた。畢竟、過酷な労働と分限者の貪欲の狭間で「安寿と厨子王」の勧善懲悪の物語が成立したのだ。地元に伝わる民話では、土中に埋められた山椒大夫の首は「竹のこぎり」でひき殺されたと伝えている。鴎外はさすがにこの場面の描写はカットしている。弱者の、狡猾な分限者に対する憎しみと怒りは一挙に爆発しその富と人格は木っ端みじんに叩き潰される。そこに貧しく虐げられた人々の歓喜と無法が同居する何とも理解しがたい古代社会の懲悪観念が見え隠れする。
 由良湊は河口から2.5`ほどさかのぼると由良ヶ岳の麓に石浦というところがある。「山椒大夫の屋敷跡」の看板が立ててある。小道を20メートルほど登ると紅葉の大木に囲まれた台地がある。そこは山椒大夫の屋敷跡と伝わっている。樹下に五輪塔や古墳らしき石組みの竪穴があるのみ。屋敷跡らしきものは発見できない。
 屋敷跡を下り国道に出て由良川を眺めるとに竹に覆われた「鈴蘭」という中州が浮かんでいる。河積が大きく岸辺の浸食を防止するための管理施設と思うが、「馬場」と伝わっていて太夫の古跡らしい。今は昔、心安らぐ風景に見入るばかりである。 
 由良湊には、安寿と厨子王の潮汲みの浜など多くの故事の伝承地がある。由良の戸から北前船の船影が現れては消える幻影が見え隠れする。−令和2年1月−