京都

ガラシャの苦悩−京丹後市弥栄町味土野−

細川忠興夫人隠棲地記念碑
イチリンソウ(味土野)
 丹後半島のほぼ中央部に味土野(みどの)というところがある。旧竹野郡野間村の在所だ。そこは重畳をなす山々が集落を覆い隠し、はるか三方を日本海に囲まれた豪雪地帯。丹後半島の中でも特に厳しい自然にさらされたところ。
 先の大戦後、最盛期には戸数50戸ほどあった集落も昭和38年のいわゆる三八(さんぱち)豪雪によって多くの住民が離村し、集落は崩壊した。味土野はいま集団離村後に入村した3戸ばかりの住人によって維持されている。
 春4月、味土野の道端でイチリンソウやフクジュソウが咲き、山桜がに華やいだ季節の到来を告げている。村人たちはイチリンソウを‘嫁殺しの花’と呼びすてるほど過酷な労働の始まりを告げる花だった。
 訪れた日、もう5月も近いというのに味土野の谷は未だ雪に覆われ、野間から上世屋間に抜ける道路は倒木が行く手を阻み、途絶の状態。田畑には氷雪がのたうち、まだら模様の叢林のてっぺんでヒヨドリが一羽、甲高い鳴き声を残して天空に消えていく。この村にもうかつての面影はない。
 この味土野こそ細川忠興夫人・ガラシャ夫人の隠棲地。石田三成(豊臣方)の策略に抗し、大坂城外の細川屋敷で果てた細川忠興夫人・ガラシャがその十数年前、2年間ばかり隠棲したゆかりの土地である。ガラシャは父明智光秀が京都・本能寺において織田信長を殺害し、夫忠興に離縁され味土野に遣られ、隠棲していたのだ。
 味土野集落の小高い丘に「細川忠興夫人隠棲地」の石碑がぽつんと建っている。血なまぐさいどろどろとした戦国時代を生きたガラシャの叫びが山稜にこだまして陰々とした日本海に消え入る錯覚を覚える。
 ガラシャ・忠興夫妻の葛藤
 ガラシャは明智光秀の3女。珠(たま)と称した。父光秀は始め福知山に城を構える丹波国領主であった。天正6(1578)年、お珠は織田信長の仲介によって丹後国を治める細川藤孝(号・幽斉)の嫡男忠興(隠居後は三斉と号す)と結婚。ガラシャと同い年の15歳の春の祝言だった。
 翻って信長が天下平定を目指していたころ、丹波に一色一族がはびこり何かと信長に抵抗していたころ、信長はその排除のため丹波と地続きの丹後に細川藤孝を配したが状況は好転せず、いたずらに歳月を重ねていた。
 そこで、信長は細川・明智両家が一つになって、一色氏の攻略を図るべく細川藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お珠の婚姻を画策したのだ。信長は己の野望から自ら媒酌人となり両家の婚姻を取り計らった。計略どおり一色一氏は丹後から駆逐された。藤孝が丹後に入ってから3、4年もかかってようやく丹波は信長の意図するすがたに収まったのである。
 信長の丹波平定は一色氏の排除のみならず、深い伏線があったように思われる。丹波は京にほど近い所に位置し、亀山(亀岡)から「老いの坂」を越えれば一時間もかからないうちに都に入る。丹波中部の福知山から南へ抜けると際立つ要衝もなく難なく瀬戸内海に至り西国、大坂攻略に都合がよいところに位置する。知将が群居する西国攻めにあたっては、先鋒や兵力・軍略に欠ける大名への戦力強化などの後方支援が必須。光秀の丹波配置にも信長の政治的策略の遠望深慮が透けて見える。
 信長と光秀は三河以来、師弟関係を築き、信長は光秀の軍略を激賞していたし、光秀も信長のアクのあるもの言いを含めその表裏を知り尽くしていたはずだった。
 さて信長が仕組んだ細川忠興、お珠の結婚は功を奏したのかであったが夫婦仲はよく、婚姻の翌年には長女を、さらに年子で長男を授かり、暫く平穏な日々が続いた。
 忠興は父藤高から家督を譲られ若くして戦歴を重ね勇猛なな武将に成長するうちに千利休と好を通わせ茶の道の師匠として利休を仰ぐようになる。若干20代の細川家の御曹司は利休のお手前

師事するようになる。武将と茶の世界になんとはなく似通った一期一会の興奮からおこる心律(自分の造語)を感じたとったのであろうか。あるかなしかのにじり口から

福知山城
 しかし一寸先は闇。人は一見、性格が異なるのようにみえても似通っていて、互いに見えないところがよく見え、陰に陽に些細なことで対立したり、罵りあうことがよくあるものだ。信長と光秀の性格はともに勝ち気で神経質。よく似た性格がわざわいしそりが合わず、双方の人間関係まで歪めてしまったのだろう。かつ不幸にも信長と光秀の関係は対等ではなかった。二人は三河以来、主従の関係にあり、光秀は信長から一方的に辛辣な攻撃を受け続け、信長に命令されるままに出陣し、戦功をあげても難癖をつけられた。事あるごとに嫌味をいわれ、それを聞き流せない光秀がいたのだ。鬱積は次第に蓄積し爆発寸前であった。
 ときに天正10(1582)年6月、光秀は信長に呼び出され、中国の毛利攻めで苦戦していた羽柴秀吉の応援を命令され、一統中の序列を決められたと感じとった光秀は耐え難き恥辱を感じとったに違いない。この時、信長殺害を決意したと思われる。
 光秀はいったん領国丹波に帰国。戦陣を整えて中国攻めに向かう途中、京都の西郊、老いの坂において、光秀は信長が滞在する洛中の本能寺に馬首を向け、信長を殺害した。この光秀の信長殺害は光秀の明晰な頭脳から推して計画的な犯行とは考えづらい。信長に対する積年の恨みが突発的に表出した殺害であった。人の目には怨恨による計画的な主君殺しと映った。事件後、光秀がどのように取り繕ってみても到底、天下統一の野望を支える事件後の施政の構想は準備されておらず学者、思想家等の支援もなく到底、諸大名などが光秀政治を期待しなかったこともまた事実であった。
 逆臣の汚名をきせられた光秀は娘お珠の婿忠興や藤孝のもとに使者を遣り、自らは京にあって諸氏に天下統一への協力を再三求めたが、細川父子は光秀の要請をきっぱりと拒絶。光秀は戦地にあって毛利と急きょ和睦し中国戦線から引き返した秀吉に斬られ、いわゆる三日天下に終わった。
 信長の死後、天下の覇権は秀吉の手に握られていく。本能寺の変は、信長の天下人としての資質の欠落が事件を誘発した側面もあり、信長、光秀両人の自滅と考えられなくもない。
 本能寺の変後、忠興はお珠と離縁し、味土野に幽閉し、秀吉に恭順の趣を示すのだった。お珠は幼い二人の子を宮津に残し、鳥も通わない僻地の味土野に旅立って往く。お珠19歳の夏のころだった。
 美貌才智とうたわれお珠。二人の子を授かり、忠興との順風の生活から一瞬にして地獄に転落したお珠もまた哀れであった。味土野の山襞で逆臣となり秀吉に殺害された父光秀のこと、父の要請を拒否し秀吉に走った夫忠興ら細川父子の行状を思ううちに、お珠は次第に悟道を得ていく。
 細川藤孝は幽斉と称して歌人としても名があり、茶を解する風流人であった。忠興にはそのようなところはなく武骨な野人然とした猛将であったかと思われる。しかし忠興は三斉を名乗る茶の京都・高桐院名手で利休七哲の一人と謳われ、かつ利休が秀吉の望みを断って忠興に贈った石灯籠(墓標)が細川家の菩提寺京都・大徳寺の塔頭高桐院(写真左)にあり、文化的素養や人徳のある人物であったことも否定はできない。しかし、政局の方になかなか敏感な武人であり、時の流れをよく読みとって、妻お珠さえも事態収拾に利用した。何の落ち度もないお珠を離縁し、味土野に幽閉し、幼子の哀れを思わせ、秀吉の同情をかった。光秀の判断に重大な瑕疵があったにせよその子お珠も人の子、無垢の愛が親子に宿ることは否定できない。義父の不始末にわが妻を見捨てることは筋違い。妻のために自らの名声を捨てることがなぜできかなったのか、時代背景を思うとこの辺りの情感をあれこれ思うことは的外れにであるにせよ、お珠はこの時、ある種の諦観と覚醒を得て、忠興を見放したと考えられないか。
 忠興は藤孝のような歌人然とした鷹揚な人物とはとうてい考えられない。後年、お珠の壮烈な死に遭遇し、戦場で狼狽し号泣したと伝えられ、お珠の辞世句などからも案外二人は強い絆で結ばれていたのかもしれないが果たしてどうだか。忠興は利休に師事し三斉と称しおう揚とした風流人に見え悠才るが、お珠の。
 秀吉にかけた忠興は丹後は宮津に残した父藤孝に任せ、自身は秀吉と行動を共にし、親衛隊然として秀吉の天下統一に奔走する。
 お珠の幽閉から2年ほど経た天正12(1584)年、秀吉はお珠を解くべく忠興を説諭し、同年3月にお珠は幽閉を解かれ忠興と復縁。忠興の大坂屋敷に戻ったお珠は興秋を産み、2年後の天正14年に忠利(後の熊本藩主)を産む。忠利が病弱であったことがお珠のキリスト教入信のきっかけとなったという説があるが、お珠の入信はそのような単純なものではないだろう。悟道を求め生活した味土野時代のお珠を思わねばならない。
 天正15(1587)年2月、お珠は忠興が秀吉に従って九州に遠征中、密かにイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで洗礼を受け、ガラシャの名を得る。奇しくも秀吉がキリスト教禁令を発出する4か月前の受洗だった。
 英雄色を好むとは偽りではないようであり、秀吉は家臣の夫人や名もない女にまで興の向くままに振舞う性癖があったという。秀吉が伏見城にいたころ、各大名夫人を招き盛大な酒宴が催された際、かねてお珠に野心を抱いていた秀吉は宴の終幕を見はからいお珠の方に対し、あやしげな行為を行なおうとしたがお珠の方は懐剣を握り、秀吉のはしたない振舞をたしなめたという。忠興との復縁という恩を売っておいて、くだんの振舞に出た秀吉の打算はお珠には通じず、お珠は敢然として秀吉を拒否したという。
ガラシャの祈りと死
 慶長3(1598)年8月、秀吉が薨じると天下の実権は豊家から次第に徳川家康の方に移り始める。豊家の内紛によって忠興など反三成派が家康支持についたことが豊家の瓦解を早め、家康の覇権への野望は大いに加速したことであろう。慶長5(1600)年7月、家康の命令に従って上杉景勝の討伐に諸将が会津に向け出陣した隙、豊家の行く末に不安を抱いた石田三成は、忠興など西国大名が家康につくことを恐れ、大名夫人たちを人質にとる。そのころ秀林院と称していたガラシャのもとへも使者が来て、ガラシャは、その身を大坂城に引き取る旨の宣告を受ける。ガラシャは夫の留守中の狼藉を指摘し、「大坂城に軟禁されることは手籠め同様の仕打ち、女の最も恥辱とするところ、動かぬ。」と拒絶する。三成方は何度も使者を変え、ガラシャを引き立てようとするが、ガラシャが意思を曲げることはなかった。
先だつは同じ限りの命にもまさりておしき契と知れ 〈忠興妻 秀林院〉
細川忠興屋敷跡
(大阪・玉造)
 三成は怒り、こともあろうに5万の軍勢を玉造の細川邸に差し向け、ガラシャを屈服させようとする。それでもガラシャが動じることはなかった。わが手で16歳の男児と8歳の女子を殺し、屋敷に火をかけ、キリスト教徒であり自刃を許されなかったわが身を家老の小笠原秀清に突かせ、従容として死出の旅路につくのだった。享年39歳。己が行く道をみつめ、何とも過酷な人生を歩み、激烈な最期を遂げたガラシャ。ガラシャの歌は難を逃れた侍女により忠興に届けられ、忠興は号泣してガラシャの死を悼んだと伝えられる。
 ガラシャの死から2か月後、関ヶ原の戦がおこり、忠興は東軍(家康側)につき西軍(豊家方)の石田三成本隊と闘った。戦功をあげ宮津から中津藩、豊前藩39万9千石の領主となった。忠興とガラシャとの子忠利は熊本藩54万石に加増、移封され、忠興は八代城を隠居所とした。
 ガラシャの死後、欧州でその死は殉教とみなされた。ガラシャの生涯は戯曲化され、ハプスブルグ家のマリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリーザベート皇后など王族の生き方にも影響を与えた。上智大学第二代学長で戯曲細川ガラシア夫人の作者であるヘルマン・ホイヴェルスは、その著「日本で四十年」のなかで、‘・・・四十年を日本で過ごし、ふりかえって、日本のどこに一番好きな所があるかと自問してみると、それは宮津と天橋立であります。・・・’と述壊している。ヘルマン師には丹後の女王・細川ガラシアへの熱い思いが宮津と天橋立に重なるのであろう。 −平成23年5月−
小倉城 細川ガラシャ夫人