九州絶佳選
熊本
細川ガラシャ夫人−熊本市立田自然公園−
  散りぬべき時知りてこそ 世の中の花も花なれ人も人なれ
                    <細川ガラシャ夫人>  
細川家墓所 熊本市立田自然公園校内の細川家墓所にその夫忠興の左隣に妻藤波夫人(お珠とも。後年のガラシャ)が葬られている。 
 細川忠興は、はじめ京都の北部・丹後の宮津にあって織田信長に抵抗していた一色氏を駆逐するべく父藤孝(幽斎)とともに丹後に遣られた武将。このころ、細川父子の後を追うようにして明智光秀が隣国の丹波領主に任じられ福知山城にいた。細川・明智に共闘体制を組ませ一色氏に対する包囲網をより強固なものにするため、信長は明智の娘お珠と忠興の媒酌の労をとるのだった。忠興16歳、お珠15歳の春だった。こうして細川・明智の共闘によって一色氏は墜ちた。細川の丹後入りから3、4年を経過していた。
 丹後平定後、天正10(1582)年、明智光秀はこともあろうに本能寺において織田信長を謀殺。信長と光秀は三河以来、主従の関係を築き、光秀はこの間数々の武勲をたて信長を洛中に導いた功労者であった。しかし、信長は光秀を決して褒めることも互いに打ち解けることもなく、光秀の武勲に対してすら一方的に難癖をつけていたぶることを常としていた。それでも長年にわたって主従の絆が切れることがなかった。
 しかし、光秀は、上洛していた信長から呼び出されぴどく罵られた上、中国に遠征し苦戦していた秀吉の加勢を命ぜられる。信長の不条理な物言いに腸が煮えくりかえり、さすがの光秀も積年の恨みが一挙に爆発したものか。頭脳明晰な光秀であったから、ここで信長を殺しても天下統一が成らないことは光秀自身が一番よく知っていただろう。
 信長の命令に従って領国から中国遠征に向かう途中、光秀は丹波・老いの坂において馬首を本能寺へ向け、信長を殺害した。「本能寺の変」と称されるこの事件は、指導者信長の部下への気遣いや対人接触の悪さがトラブルを招く好例として語られ、大事の大成に人徳が不可欠なことを後世に伝える教訓となった。
 光秀は信長を謀殺後、娘お珠を忠興のもとに嫁がせ親類となった細川父子に後援を求めた。しかし、藤高・忠興父子は光秀の要請に応えず、逆に光秀の所領丹波攻めを敢行する。お珠とは離縁。味土野(竹野郡弥生村吉野。みどの)という鳥も通わない丹後半島の僻地に、僅かの側女をつけお珠を捨てたのだ。
 捨てられたお珠の心情を知る由もないが、そのころお珠は一縷の望みを忠興に託していたのか、‘身をかくす里は吉野の奥ながら花なき峰に呼子鳥鳴く’と詠じている。
 やがて秀吉がお珠の幽閉を知るところとなり、その勧めによって細川父子はお珠を味土野から解く。このあたりの心配りと下心を滲ませる狡猾さが秀吉の秀吉たる所以であろう。太政大臣、関白へと上り詰める秀吉だった。
 本能寺の変後、藤高は家督を忠興に譲った。信長亡き後は秀吉方について賤ヶ谷の戦、長久手の戦、雑賀攻め、九州遠征等々に参戦する忠興だった。文禄元(1592)年には秀吉が進めた朝鮮遠征に加わり、宮津から海路、肥前名護屋城に向かい朝鮮に兵を進め軍功をあげている。
 忠興が九州遠征中の天正15(1587)年、お珠は大阪城近くにあった玉造の細川屋敷にいた。このころお玉は、侍女の手引きによってキリスト教の洗礼を受けガラシャの名を得る。
 秀吉が薨じると、だれが言うともなく徳川家康が天下人となり、忠興は家康に従うようになる。慶長5(1600)年、忠興は家康に従って会津の上杉攻めに出征。その留守中に石田三成が挙兵し、大阪城中にガラシャ夫人の質入を要求。ガラシャ夫人はこのとき忠興邸おいて標記の「散りぬべきとき・・・」の辞世の句を残し自害した。享年39歳。
 炎上した忠興邸の故地に越中井(井戸。忠興が越中守を名乗ったことに由来。故地の旧町名は越中町)が残っている。越中井の傍らに顕彰碑(昭和9年造立。(写真左))が建っている。徳富蘇峯が表題を揮毫し、左側面に新村出が由来を揮毫、右側面にはガラシャ夫人の辞世の句が刻まれている。
 忠興は関が原の戦いにおいて、家康の先鋒となって戦功をあげ、杵築領に次ぐ更なる加増によって豊前一国と豊後の国東郡を得て、総石高40万石に出世した。
 忠興は豊前仲津城に依拠したが、その後小倉城に移る。元和元(1615)年、家督を子の忠利に譲り肥後54万石に移封されると、忠興は八代城に移る。正保2(1645)年没。享年83才。大往生だった。
 数限りない戦闘を繰り返し、信長、光秀、秀吉、家康の世を生きぬいた細川藤高と忠興父子。戦乱の狭間で自己をみつめ孤高の死を遂げたガラシャ。父光秀を秀吉に討たれ、その配下の三成にいままさに身柄を拘束されようとするガラシャの胸中は想像に難くない。夫忠興もまた、父光秀を攻めた武将だった。
 戦場にありガラシャ自害の訃報に接した忠興は、陣中で号泣したと伝えられる。忠興はガラシャの一番の理解者であったのかもしれない。国中を戦場として生きぬき、人の世の哀れを誰よりも理解していた人だったのかもしれない。