多度津の風景−多度津町家中等−
■ 「・・・停車場の待合室では、ストーブに火がよく燃えていた。そこで20分ほど待つと、普通より少し小さな汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅宮に向った。・・・」<暗夜行路>
きしゃば
一太郎やーい
  大正12年の早春、志賀直哉は多度津駅の風景をこのように表現した。丸亀−多度津−琴平間に讃岐鉄道(金毘羅参拝鉄道)が敷設されたのは明治22年。四国で最初の鉄道だった。多聞寺の西の交差点に駅の故地「きしゃば」(写真左)、多度津町民会館の広場の隅に「四国鉄道発祥之地」の石碑が立ち、鉄道草創期の多度津を路傍にうつしている。
■ 多度津は、丸亀とともにこんぴら船の着岸港として栄えたところ。桜川の河口一帯は、こんぴら詣の客や米俵などを満載した廻船が往来する繁華な港町だった。港近くの通りの木造旅館が金毘羅詣の往時をとどめている。河口沿いの金毘羅神社や戎神社或いは街道筋の献燈に尾州、周防などの廻船業者や講中の名がみえる。金毘羅神社に大店が奉献した常夜燈が10基ほどのこっている。
 桜川は上代、応神天皇の母・神功皇后が朝鮮出兵の際、風雨を避けて軍船を寄せたところと伝えられる。桜川を少し遡ると応神天皇を祭神とする榜立八幡神社がある。いまは熊手八幡宮の末社となっている。
■ 藩政期の多度津は城を構えなかった。桜川の河口から少し遡った右岸一帯に御殿、東御殿などの陣屋を置き、政庁とした。御殿、東御殿ともいまはなく東御殿跡にわずかに石垣が残るのみであるが、「大手筋」や「鍵の手袋小路」あたりの沿道を埋める武家屋敷群が往時を物語る。
 「大手筋は幅員、通りの長さとも昔のままですが、東御殿と御殿のあいだにあった堀は埋め立てられました。通りがカギになっていて道を聞かれると説明に窮します。」と、地元の人。武家屋敷がこれほどまとまってのこる地域は県下でも多くはない。
 奥白方に旧多度津藩家老・林家の屋敷がある。浅見旧多度津藩士邸は町立資料館(無料)になっていて、同館に弁才船(高見島の八幡宮に奉納された宝暦年間の千石舟の模型)や藩政期の町並みのジオラマなどが展示されている。折々に雛人形展など特別展の開催もある。多度津散策の入口として訪問されるとよいだろう。
■ 桜川の左岸の本通りに古色が漂う民家の美しい家並みがのこっている。軒を連ね通りに家並みの影が長く伸び、冬の日が静かに過ぎてゆく。通りを北側に入った桜川沿いのナマコ壁の土蔵群も美しいものである。
■ 市街の西に切り立った丘のうえに桃陵公園がある。春には桜花に人々が集い、瀬戸内海に春を告げる公園。眼下の桜川沿いや旧浜街道に本瓦葺の美しい家並みがひろがる。公園の北端に、「一太郎やーい」の銅像が建つ。海に向って手をふる出征兵士の母の銅像である。子を想う母の気持ちに今昔はない。
 桃陵公園の山麓南側に少林寺拳法の総本部がある。-平成17年1月-