九州絶佳選
熊本
江田船山古墳−菊水町江田−
菊地川 菊池川の中流域に清原台地という小高い土地がある。菊池川が蛇行し玉名の平野に開けるのど仏の左岸に所在する台地である。
 古代の豪族はよほどこの台地を好んだとみえ、一帯に京塚、虚空蔵塚、塚坊主等々の古墳が営々として築かれてきた(右下)。
 清原台地に立ち、金銅の冠帽を被り、銀象嵌が施された大刀を佩き、沓を履き眼下の菊池川の彼方を望む豪族の姿がみえるようだ。
 豪華な副葬品が出土した江田船山古墳(前方後円墳。写真右下)の被葬者がその人物であろう。
 古墳の諸元は、全長46メートル(復元61メートル)、後円部直径26メートル、高さ7.9メートル。前方部は、幅23メートル、高さ約6メートル。大刀の切っ先でペガサス(天馬)が天空を駆け、海鳥が舞い、刀身から銀象嵌の金石文が発見された。金石文は、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれたそれとともに日本最古の文字である。全国に5、6世紀の古墳は数多く存在する。しかし、江田船山古墳と稲荷山古墳でしか発見されていない太刀や剣は一体、何を語っているのだろうか。
 江田船山古墳のおびただしい副葬品は約200点にもなり、石棺やその回りから獣帯鏡等の舶載鏡、金銅製の冠帽、くつ、耳飾、環鈴、衝角付冑等々が出土した。鏡や冠帽などの副葬品は、中国や朝鮮半島の墳墓から出土するそれらによく似たものが多い。日本国内においてこのころ、これだけ豪華な副葬品を伴う墳墓は他に所在しない。江田船山古墳はそれほど選択的な輝きがある。
 江田船山古墳は、被葬者の素性とともに火の国をとりまく政治経済状況等々について私たちの関心を刺激
し続けている。墳墓の形式や刀身の金石文の読解から被葬者は5世紀末から6世紀初頭に活躍した人物とみられており、倭の五王と火の国北部の政治的状況を考えると興味深い。
 倭の五王はこのころさかんに宋朝に使いを出し大将軍(第二品の官品)の任爵を求めた。高句麗王などは倭王に先立って大将軍の称号を得ており、倭王はどうしても大将軍の称号を得たいところ。宋書は西暦478年、倭王武(雄略天皇。倭の五王中、最後の王)に安東大将軍の称号を与えたとしるしている。しかし、倭王は第一品に任ぜられることは一度もなかった。
 江田船山古墳の被葬者は、鉄刀に刻まれた金石文から雄略天皇に比定される倭王武=獲加多支鹵わかたける大王に仕えた典曹人(文官)とする者もいる。被葬者は倭王が海外に目を向けた激動期に生きた人物。稲荷山古墳出土の鉄剣についても、その銘名から獲加多支鹵わかたけると読める標記がある。両者の銘を比較すると、江田船山古墳の太刀銘は典曹人、百錬の利刀であるのに対し、稲荷山古墳の剣銘は杖刀人(天皇の親衛隊)、八十錬せる・・・利刀とされ、銘文の表現法に相互に類似するところがある。奇しくも日本の東西から倭国の政治的状況をあらわす遺物が発見されたといえる。
 江田船山古墳の被葬者は、太刀銘や出土遺物からヤマト王権に出仕した人物或いは朝鮮半島で倭国のいわば商館乃至在外公館業務に携わった者等々と思ってみることもできるだろう。このころ、高句麗が強大化して朝鮮半島伝いに中国に至る航海が困難になり、有明海から済州島を経て中国に入貢するコースがとられるようになった。被葬者は有明海という起点の地の利を得て、倭国と半島を往来しヤマト王権に従った人物と考えられなくもない。副葬品もとびきり上等なものだ。
 しかし、5、6世紀前半に火の国の豪族とヤマト王権との間に服属関係が存在したかどうか不明な点が多い。菊池川の北に矢部川が流れている。この川の上流域に6世紀に活躍した筑紫君磐井の墓がある。磐井は対朝鮮半島政策についてヤマト王権と対立し反乱を起こした豪族。磐井の時代に至ってもなお九州の豪族は容易にヤマト王権の意図に従わず、服属しなかったのである。その磐井を遡る時代に、火の国の豪族がヤマト王権下にあったとはにわかに信じがたい。
 倭王武は、宋朝に送った上表文に「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」とうたった。ヤマト王権から衆夷とされた江田船山古墳の被葬者がどうして朝鮮半島の王族並みの副葬品を所持し、かくも立派な石棺に眠るのか。支配の及ばない強大な独立国であるがゆえに、ヤマト王権は衆夷を服すと偽ってまで大将軍の称号を得べく策を弄したと考えられなくもない。
 江田船山古墳の被葬者は、ヤマト王権下の文官などではなく菊池、玉名地方を支配しその豊かな生産力を背景にして富を蓄えつつ、新羅や百済などとの交易に当たった豪族と考えられないものか。藩政期における国内流通米450万トン中40万トンは肥後米。肥後米の半分の20万トンは菊池川流域の菊池・玉名産だった。菊池・玉名は、それほど肥沃で豊かな土地である。
 火の国は、有明海の東岸にあって、筑紫と同様、中国や朝鮮半島との往来に地の利がある。半島の南部加耶諸国は古くから九州と密接な関係をもち百済、新羅の緩衝地帯として栄えたところ。江田船山古墳の被葬者があえてヤマト王権に出仕しなければならない動機付けが乏しいように思う。加えて、副葬品の太刀について、銘文の表現方法が埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣に似ているのも、これらの遺物が被葬者の意思によってつくられたものではなく、ヤマト王権から届けられたものであることを示唆していないか。それは倭王武が上表文であらわしたように、ヤマト王権によって江田船山古墳の被葬者が平らげられというようなものではなく、強大な地方豪族に対するヤマト王権の奉献に近いものではなかったか。
 雄略天皇を3代さかのぼると反正天皇。倭王珍とみられる天皇であるが西暦438年南朝宋に朝貢し、「使持節、都督倭、百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と自称し、その任官を求めた。与えられた官職は「安東将軍 倭国王」だった。高句麗、百済の王より官位が低く、倭隋ら13人の臣下が得た平西・征虜等の官職と同格の将軍(3品)にどとまっている。このことは、天皇と臣下の権力関係や血縁関係の遠近を考える上で非常に重要なことのように思われる。五王の時代、ヤマト王権は、日本書紀にしるされるように応神天皇のころから渡来人を多数受け入れ、彼らがもつ高度な文化を最大限活用し、産業の新興や権力構造等につき他豪族との差別化を図りつつあったものの倭国統治の実態は地方豪族の分散統治であって、本拠地である畿内に巨大古墳や大溝等の大灌漑事業を成すことは豪族を牽制する有効な手段であるばかりかそうしたヤマト王権の力を背景にして中国王朝と冊封関係を結ぶ、より上位の任官を得る事は倭国統治進めるためにも重要であった。允恭天皇とみられる倭王済も451年、臣下23人の任官を求め朝貢しており、倭国の政治的環境は大きな変化もなかったのだろう。そうすると、ヤマト王権は、うまく進まない対中国政策を進めながら、独自の交易等を通じ朝鮮半島の王族にコネクションを持つ江田船山古墳の被葬者に対し、その死を悼み、太刀を贈呈することによってヤマト王権への協力要請を行ったものと見られなくもない。それが倭王武の・・・東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国・・・の実態のようにも思われる。しかし、結局、1世紀もかけた倭国の朝貢もうまく行かず、倭王武は宋から大将軍に任官されたものの終に、開府儀同三司(1品)の任爵は得られなかった。宋は高句麗、百済の後方に倭国を置いていたのである。以来、倭国は長く中国に遣使することはなかった。
 清原台地は、江田船山古墳等の古墳や民家村、石人が立つ万世の森(緑地公園)として整備された。江田船山古墳の墳丘に登ると、阿蘇溶結凝灰岩製の家型石棺(写真左下)を見学することが出来る。古墳の石室内の湿度が高くのぞき窓は結露しているが、窓の外からハンドルを回すとワイパーが上下して結露を取り除けるようになっている。
 江田船山古墳の出土品は明治6年に県外に流出してしまい、現在、園内の歴史民俗資料館にレプリカが展示されている。公園訪問の際には、ぜひともご覧になるとよい。−平成17年12月−
江田船山古墳出土遺物(資料館のレプリカ(石棺を除く)より)

家型石棺


金銅製冠帽

金銅製沓

中国鏡

参考: 古墳の面影 三角縁神獣鏡の不思議
     古墳のある風景(私市きさいち円山古墳)