京都
丹後の王国−与謝郡与謝野町、京丹後市丹後町、同網野町等−
 京都府の北西部に西から久美浜、網野、丹後の海岸線が丹後半島の西海岸を這い上がり、やがて半島の最北端・経ヶ岬に至る。その東方に宮津、舞鶴の町を抱くようにして若狭湾が展開する。これらの地域は丹後(和銅6(713)年に丹波から分国)と呼ばれ、古い歴史をとどめるところである。
 大河がなく、広大な平野もなく、日本海岸の平凡な一寒村地域であるはずの丹後。しかし日本史は、この寒村に巨大な古墳や王族の古い歴史を刻んだのだ。
 丹後には古墳時代前期に築造されたと考えらる前方後円墳や円墳などの古墳が混在し、うち全長100メートルを超える前方後円墳が6基も所在する。大型円墳も大体この時期に築造された。
 農業生産力に比べ、不釣り合いな巨大古墳の存在はいかにも丹後の秘められた歴史を感じさせるに十分である。国道176号線を行き与謝峠から見下ろすと野田川流域のちっぽけな段丘に開けた加悦谷(与謝野町加悦)が展望できる。その右岸地に築造された前方後円墳・蛭子山1号古墳は(えびすやまいちごうこふん。全長145メートル)や作山1号古墳には、野田川流域の農産物の生産高のみから到底、想定できない規模と舶来鏡など副葬品の豪華さがある。加えて両古墳とも石棺に花崗岩を使用。蛭子山1号古墳のそれは舟形に整形され、この種の部材を用いた石棺は畿内でもほとんど作例がない。さらに、丹後町に鎮座する延喜式内社・竹野神社(大社。京丹後市丹後町。写真下)の裏山に神明山古墳(全長190メートルの前方後円墳)がある(写真上)。墳丘から日本海を望むと、眼下に間人(たいざ)漁港地先の立岩が見える。古墳は依遅ヶ尾山(標高540メートル)の西麓尾根の先端部に築造(写真上)され、その西に竹野川が流れる。背後に山が迫り、竹野川の流域面積も狭く、到底、大古墳を支え得る生産力は期待できないところだ。さらに、京丹後市網野町には日本海岸最大級の銚子山古墳がある(古墳198メートル)。全長約20メートルほどの小さなニゴレ古墳(不整形墳)からは短冑など豊富な武器が出土している。このように、目を見張るような巨大な古墳や主体部を埴輪で飾り、埋納された豪華な副葬品等をどのように解釈すればよいのか。私たちはそれらの古墳を築造した富が単に、農耕によって生じたものでないことを容易に知ることができる。
 富の根源につき諸説あるが、伽耶(かや)など朝鮮半島諸国との交易による鉄ていの移入及び鉄ていを部材にして鉄剣や甲冑等の武器の製造・販売を行う鍛冶技術や商人の存在、並びに鉄製用具を用い製造された織機を使用し織物作業や桑の生産に従事する農民の存在など丹後は多種多様な商工業の一大都市を成していたのだろう。またその財力と鉄製兵器の武力(抑止力)は丹波一国を支配するほどの威勢があったに違いない。婚姻を通じヤマと王権との強い絆を背景に巨大古墳を築き、繁栄した古代王国をなしえた国だった。
 古墳の規模等から推し丹波(後の丹後)は出雲や越を凌ぐ商業都市として栄えた日本海岸のハブであった。氏姓制度のもと丹後の文化は丹波直一族によって与謝野峠を越え、由良川(写真右下)を遡上し流域の天田郡(福知山市等)や何鹿郡(綾部市等)などにも伝播したことであろう。私市丸山古墳など中丹波の巨大古墳は国造や県主に就いたとみられる丹波直一族の繁栄の証であるかもしれない。
由良川
市辺押磐皇子墓
 丹後に巨大古墳が築造された古墳時代前期ころは倭の五王たちが東アジアに雄飛した時代と重なる。当時、倭国は中国王朝の冊封下にあった。倭国が百済や高句麗など朝鮮半島諸国を抑え極東の覇権の獲得を企図して相当誇張した上表を携えて中国に朝貢したことが雄略記などから分る。しかし、結局、倭王の狙いが叶ったことはなく、冠爵の扱いはいつも高句麗、百済の下に置かれていた。五王中の最後の倭王・雄略天皇は、以降中国王朝に朝貢団を遣ることはなかった。五王の苦い経験は本邦に長く封印された。後年、斉明天皇(白村江の戦)や豊臣秀吉(文禄・慶長の役)が大陸に兵を進めたのもそうした過去の悔しい記憶が大陸遠征の動機となったことも否定できない。しかし、結局半島から叩き出されてしまうのである。
 倭国の弥生時代に稲作が定着し、その生産と配分の過程において階級社会を生み、豪族の武装化を促進させる。また富の蓄積は生活水準を向上させ、生活様式が多様化し、鉄器や絹織物の旺盛な需要が生じたことであろう。そうした倭国社会の変化は応神記にみられるように多くの渡来人を請来させ、渡来人の知識や技術が本邦発展の礎として大いに貢献したのである。
 丹後は倭の五王のころから巨大古墳の発生をみるが、伽耶など朝鮮諸国との交流は当地の弥生墓の副葬品から応神朝よりかなり早くから行われていた。交易によりもたらされた鉄ていから武器や織機などを製造、販売し、農民は国内の旺盛な需要に支えられ機織物を生産し、丹後の富国化は大いに進んだに違いない。
 丹後の繁栄は、記紀等において特に神話と歴史時代の狭間に暗示されている。開花天皇の竹野比売は丹波大県主田基理の娘。垂仁天皇の皇妃もまた丹後に出自する。景行・成務・応神天皇の外祖なども丹後に住まいした。ヤマト王権の内訌から後の雄略天皇が履中天皇の市辺押磐皇子を蚊屋野に殺し(写真右上。御陵は滋賀県東近江市市辺町に所在。帳内佐伯部売輪のものとと伝えられる墓と並び築造)、自ら21代天皇についた折、市辺押磐の2皇子(後の23代顕宗天皇、24代仁賢天皇)が一時、丹波の豪族(丹波余社(与謝)五十日真黒人)に身を寄せている。聖徳太子の生母で用明天皇の皇妃穴穂部間人皇后は丹後・間人に縁がある(写真右下は間人海岸に建つ聖徳太子母子像)。
 上代、古代における丹後の歴史は古く、また機織織物の伝統は加悦谷や網野、峰山などに広く受け継がれ、今日まで各種の織物中、選択的な光を放っている。−平成22年7月−

竹野神社 穴穂部間人皇后
・聖徳太子母子像