大阪
ロザリオの村−茨木市大字千提寺、下音羽−
 茨木市の山間部に千提寺(せんだいじ)、下音羽という二つの集落がある。北摂津の深い山塊に刻まれた耕地が棚田をなす。
 5月中旬ころ農家は入梅待ちの代掻きに余念がない。棚田わきで、等高線を這いあがり高度を増す道は丹波に通じ、亀岡(京都府亀岡市)に至る。野辺にモチツツジが咲き、黄色の小さな花をつける野草はオモトであろう。山里はもう初夏の日差しに包まれている。
 千提寺、下音羽などの集落にアベマリアのオショロを潜行させ、ロザリオに信仰の証を託したキリシタンがいた。大正15(1926)年、ジョアン・バプチスタ・カスタニエ司教らが千提寺を訪れ後裔の家族らと邂逅し、アベマリアの記憶が蘇るまで実に三百数十年の歳月を要したのである。それは、慶応元(1865)年、長崎の隠れキリシタン14名が大浦天主堂でプチジャン神父と涙の抱擁を交わした信徒復活にも似た出来事であった。
 今日、両集落のキリシタンの末裔は改宗し、キリスト教信者はいないが、千提寺にある「茨木市立キリシタン遺物資料館」で隠れキリシタンの遺物が公開、展示され、下音羽の高雲寺境内やクルス山などにキリシタン墓碑が残っている。

キリシタン墓碑
(高雲寺)
千提寺天主堂跡
ロザリオ
―茨木市立キリシタン遺物資料館―

キリシタンのこと
 茨木市を含む攝津地方のキリシタンは、永禄11(1564)年に洗礼を受け、4年後に当地を預かり、後に高槻藩主となった高山右近の影響下で増大したものと思われる。右近12、3歳ころの受洗かと思われる。右近は基督教布教に協力し、13年間の統治下において藩内の信者は急増したことであろう。日本布教年報(1585年ベネチア刊)によれば、京都、安土、高槻に天主堂が建ち、伴天連、伊留満が滞在する教区となっていて、天正9(1581)年に高槻で行われた復活祭に集まった信者は1万5000人に及んだという。
 天文20(1551)年、ザビエルが入洛し、その9年後の永禄3(1560)年、定住を許可された宣教師ガスパルによっていわゆる南蛮寺が京都に建立され、かのフロイスが来任することもあった。高槻の天主堂も京都のそれと時期を隔てず建立されたかと思われる。永禄12(1569)年、信長が入洛すると、焼仏行動の余波から京都の南蛮寺の消長はあったものの、天正4(1576)年に南蛮寺は新築を見て、同9(1581)年にワリニャーニの京都巡察が行われ、安土にセミナリオ(修業所)が建ったのもこのころだ。京滋における基督教の全盛期だった。
 しかし、翌天正10(1582)年6月、本能寺の寺の変がおこると洛中の内外は混乱を極め、秀吉の時代が到来する。京滋の基督教の中心は京都からやがて高槻、大阪に移る。天正15(1587)年、大阪城下の細川忠興邸において、ガラシャ婦人がケリコリにつき受洗。豊臣方から我が身の質入を促されたガラシャは自害。このとき秀吉は博多に滞在していたところ、突如、基督教禁教令を発布する。事件の経過と秀吉の決断の理由が釈然としないが、家臣の妻であってもはむかう者へ容赦ない指弾を加えたのである。秀吉はこの時、京滋に在った22箇所の教会、礼拝所を破壊し尽く、京都の南蛮寺も当然、破壊された。
 慶長3(1598)年、秀吉が他界すると、関が原を制した家康ははじめ基督教に寛大な態度を見せ、慶長9(1604)年、ロドリゲスの希望を受け入れ京都在留の許可を与え、教会の再建を認めた。しかし、それも束の間、関が原を制した家康は、慶長17(1612)年、側近筆頭の岡本大八を火焙りに処し、肥前有馬城主有馬晴信には切腹を命じる事件がおきた。トラブルを起こした両人がいずれもキリシタンであるという理由からだった。さらに家康は、慶長19(1614)年、幕府の重鎮大久保忠隣に大坂のキリシタン制圧を命じた。大久保はキリシタンに改宗を迫り、拒否した信者は四条河原に引き出され火焙りの拷問に処せられ、70人ほどのキリシタンは東北地方に流罪に処せられた。高山右近はこの時、長崎に追放され、さらにマニラへ流され当地で亡くなった。享年63歳。キリシタンの弾圧に当たった大久保忠隣も任務中の京都で豊臣方との内通を疑われるなどして大名を改易され、悲運のうちに生涯を閉じている。キリシタン弾圧の悲劇は、家康の側近らの内紛に根ざし、関係者がいずれもキリシタンであったところから禁令を普遍化してしまったところにある。結局、家康もまた乱世に生き、人の個性を排除し、一族の多幸のみ願う哀れな政治的感覚しか持ち得なかった不幸を自身に抱え込んだ人といえまいか。
 茨木市の千提寺、下音羽で発見されたキリシタン墓碑の造立は慶長6年から同18年までの12年間に集中している。それは関が原からキリシタン禁令に至る時期に当たり、信仰に生きた人々が一番幸せな生活を送った時期かと思われる。墓碑は板碑形式から経年とともにカマボコ形のそれに遷移している。
 京都市内においても、南蛮寺が建っていたと思われる地域の寺院からキリシタン墓碑が発見されている。こちらの墓碑にも似たような形式の遷移があるが、氏名・洗礼名の上に二支十字を置いており、没年を記銘するところは茨木市のものと似ている。しかし、京都キリシタンのものは、三行書きの記銘中、3行目に当人と命日が同じ使徒の名が刻まれているが、茨木のものは使徒の名がなく、またイエズス会の頭文字「IHS」の記銘がなくやや簡略化されている。多少の地域差があるのだろう。京都キリシタンの墓碑は京都市考古資料館(入館料無料)に展示されているので、機会があれば訪ねられるとよいだろう。
 キリシタン禁令から20年余を経た寛永14(1637)年10月、島原半島の口の津付近で発生し、天草四郎時貞を総大将にして原城にたてこもり3万人余の農民が全滅した島原一揆により江戸幕府は鎖国令を発布し、諸外国との国交を断絶、3年後に天草は天領となった。キリシタン禁令は峻厳を極めるようになる。さらに一揆から20年後の万冶元(1658)年に行われた調査「吉利支丹出申国之覚」によれば、高槻から10人、勝龍寺(長岡京市)から7人のキリシタンが捕縛されている。幕府は制札を建て、藩政期を通じキリシタンの検挙にやっきとなったが、信者は潜行し、宗教史上まれに見る闇黒の時代が長く続いたのである。
 昭和3(1928)年、カスタニエ司教により千提寺に天主堂が建てられ、第二次世界大戦の激化により外国人宣教師による布教活動が困難になるまでの20年余、ビローズ神父らが常駐し、布教活動が行われたという。天主堂跡地にマリア像が立っている。−平成22年5月− 

  参考  大浦天主堂 島原一揆(原城址) 口之津の風景 今村教会天主 キリシタン殉教