|
長崎 |
口之津の風景−口の津町− |
島原半島の最南端部に口之津という町がある。町の南方に天草の下島が浮かぶところだ。
口之津は日本で最も早くキリシタン文化がいち早く花開いたところだった。天文19(1550)年、ザビエルが平戸に入津して4年後には島原で布教が始まり、10年もたたないうちに領主有馬義貞は宣教師ルイス・アルメイダを口之津に招いている。西海諸領で開港と南蛮船の招致合戦のような様相が展開する状況下で、口之津にイエズス会インド管区長兼巡察使ヴァリニアーノ神父が渡来。全国から日本駐在のパーデレ(神父)が集合し、天正7(1579)年、第1回口之津会議が開催された。その後もしばしば口之津会議が開かれ、口之津はキリシタンの要津となり、島原の光りと影がうつろう宗教戦争の十字路となったのである。
ヴァリニアーノに導かれた4人の少年がルネッサンスの花咲くローマに遣欧使節団として長崎港を出航したのは、それたか3年後の天正10(1582)年のことだった。大村領内のキリシタン人口は6万人に達していた。出航して3年、少年使節団は欧州の土を踏み、天正13(1585)年3月23日、ローマ法皇に謁見。更に5年の歳月を経て、使節団は天正18(1590)年7月21日長崎に帰港。翌天正19年正月、豊臣秀吉に謁見するのだった。ちょうどこの年に秀吉は西国大名に名護屋城を築城させている。使節団の異国情報は、秀吉の野望を大いに刺激したことであろう。
17世紀の鎖国前夜に、我が国の宗教戦争の発端となった農漁民の一揆がおこったのも口之津あたりを震源としている。寛永14(1637)年10月、農漁民一揆の火の手が上がると、天草に飛び火し、天草四郎時貞に率いられた一揆は天草・島原の乱へと拡大していった。宗徒軍3万4千余人は原城で全滅。幕府は乱後、鎖国政策をとったのである。
口之津は明治時代になると石炭産業の隆盛によって上海向け石炭の輸出港として栄え、最盛期に人口は1万2千人を数えるまでに至った。明治31年には与論島から口之津へ移住する人々がいた。島の人口増加等による島民の窮乏から移住という苦渋の選択がなされたのである。与論島の指導者は、娘婿に或いは指導者自ら移住民となって口之津へ入り生活をともにしたという。私たちは、言行一致の指導者の愛と信とを民族の誇りとしなければならない。
明治時代の口之津の繁栄の影に、また港から女衒の手引きによって人知れず東南アジアの娼楼に消えた数多くの女性たちがいた。富国強兵、殖産興業の進展は農漁村の荒廃を招来し、借金のかたに或いは家族の困窮を救うために進んで身売りする「からゆきさん」たちがいたのである。農漁村の荒廃は全国な広がりをみせ、各地の港から「からゆきさん」は旅立った。口之津が「からゆきさん」の代表港のようにいわれるのは、たぶん繁栄と荒廃の対比があまりにも目立ったからであろう。
口之津の玉峰寺の境内で聖観音菩薩像が平和への祈りを捧げている。聖観音は、長崎の平和公園の平和記念像の作者・北村西望の作品である。
口之津はフェリーが行交う港町。明るい光りに充ちたのびやかな港町。その湾口に歴史民俗資料館がある。口之津の観光の入口であるとともに、口之津の盛衰を知るよい資料が展示されている。館内の敷地内に旧口之津税関や与論館がある。−平成
18年3月− |
口之津港 |
歴史民俗資料館 |
旧口之津税関 |
聖観音(玉峰寺) |
|
|
|
|
|