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長崎 |
長崎の鐘−長崎市− |
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1945年8月9日昼前、先の大戦の終末期に、B29によって長崎に投下された原爆は、市街地の500メートル上空で炸裂。死傷者15万人余、熱風と放射線によって市街地は廃墟と化し、その傷跡は今なお癒えることはない。長崎の出身で平和祈念像の作者・北村西望は言う。「右手は原爆を示し左は平和を顔は戦争犠牲者の冥福を祈る・・・」 と。西望は生涯、平和を希求し1987年(昭和62年)、104歳の天寿を全うした彫刻家であるが、昭和53年には広島に聖観世音菩薩立像(写真右下)を献納している。聖観世音菩薩像は広島の爆心地に近い、広島市中央図書館前庭の緑陰で平和への祈りを捧げている。ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ヒロシマ。
長崎の原爆直下の爆心地の地下に瓦や溶けたガラス、生活雑器が積もる廃墟が埋もれている。その目前に累々と死体が積もり水も流れない川があった。「長崎の証言」は、・・・この世の生き地獄図そのままだ、空は白雲一つない晴れ渡った青空というのに、地上はなんという悲惨な光景だ。・・・としるしている。
殉難碑の傍らに、壁面などを残して破壊された近くの浦上天主堂の遺壁の一部が移設されている。遺壁の上でザベリオと使徒の像が恒久平和を祈っているようにみえる。浦上天主堂は1959年(昭和34年)に再建された。設計施工は鉄川工務店。平和公園の高台から双塔がみえる。浦上天主堂は1962年(昭和37年)にカテドラル(大司教座聖堂)に指定され、1981年(昭和56年)ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の司式でミサが行なわれている。
平和公園の近くに、永井隆医学博士が浦上の隣人から贈られ、病室兼書斎とした 如己堂がある。畳二畳の居室である。博士は原爆で妻を失い、白血病に罹り限られた命の火を救護活動に捧げ、1951年(昭和26年)長崎の復興を見とどけるようにして他界。享年43歳。
私たちは、いかんともしがたい難事に不屈の精神力をもち、高潔無私で邪念がなく清廉な永井博士のような人々によって立ち上がる勇気と力を得たことを民族の誇りとしなければならない。
遠くからかすかにチャベルの鐘の音が聞こえてくる。長崎は平和の鐘が鳴るところ。−平成18年2月− |
原爆投下中心地(殉難碑) |
平和公園(浦上天主堂を望む) |
平和公園 |
如己堂 |
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