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長崎 |
大浦天主堂−長崎市− |
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大浦天主堂 |
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26聖人(西坂の丘) |
市電の停車場から続く石畳の坂を200メートルほど上ると大浦天主堂(写真右上)。1864年(元治元年)建築の天主堂は、木造ゴシック風の建物。わが国最古の天主堂である。天主堂を階段下から見上げるとき、何かしら特別の荘厳さを感じるのは天主堂が辿った歴史が脳裏を巡る所以からであろう。
瓊(たま)の浦といわれた長崎港が、ポルトガル人によって発見されたのは、1570年(元亀元年)だった。以来、長崎港は、400年余、鎖国中も三色旗と中国旗が翻る我が国唯一の開港となった。長崎は、欧州の文化が流入、滞留し、キリスト教文化も同居する都市として栄えることになったのである。
長崎にキリスト教が伝来して間もない文禄5(1596)年10月20日、豊臣秀吉はキリシタン禁制(宣教師捕縛令)を施行した。主としてイスパニア人及びこれと交渉のあるフランシスコ会の信徒が捕縛された。同年8月26日、土佐へ漂着したイスパニア船サン・フェリペ号の積荷を役人が没収しようとしたところ、乗組員の1人がイスパニア地図を示し、今に日本を侵略するぞ、と威嚇したとされる(元親記)。これを伝え聞いた秀吉は、キリスト教の日本侵略の方便と見做したのである。当時、捕縛された人は26人。フランシスコ会宣教師バプチスタ外5人、ヤソ会伝道者日本人三木パウロ外2人、その他信徒、併せて24人だった。彼等が長崎へ護送される途中、2人が加えられ、総計26人となった。一同は耳を切られ、京都、大阪、堺の市中を引き回され、慶長2(1597)年12月19日、JR長崎駅近くの当時立山とよばれた西坂の丘(写真右下)で磔刑に処せられたのである。ペトロ・パプチスタ神父ら26人の殉教者の中には、12歳のルイ、13歳のアントニオ、14歳のトーマス小崎のような少年信徒3人がいたが、いずれも従容として磔台の露と消えた。長崎へ連行される途中、トーマス小崎が備後の三原城から伊勢の母に送った手紙などが残されている。
磔刑は十字架上の突殺しであった。当日は、遠近から信者が集まり、処刑が終わると、信徒が柵内に侵入し、十字架の下で殉教者の遺物を拾ったり、殉教者の血を己が手巾で染め、司祭の衣服の一端を戴ったりした。ローマ教皇は26人を福者となし、文久2(1862)年3月、26人に聖人号が贈られ、同年6月8日にはローマで大祭が行われるに至った。26聖人を顕彰し大浦天主堂が建てられた。慶応元(1865)年、200年間信仰を貫いた隠れキリシタン14名が教会を尋ね、プチジャン神父と涙の抱擁を交わしたという。宗教史上有名な信徒復活もこの教会での出来事だった。昭和6(1931)年、26聖人を無声映画「日本二十六聖人」(ホイヴェルス師原作。日活映画社)で紹介したのは池田冨保監督だった。山本嘉一主演で片岡千恵蔵特別出演。好評を博したことはいうまでもない。
福岡県大刀洗町の今村の隠れキリシタンは、大浦のキリシタンによって発見され、禁制が解けるまで密かに交流が続けられていたという。平和の鐘がなる空の彼方に、信徒弾圧の歴史を背負って天主堂は鎮まり、尖塔が天を衝いている。 |
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