キリシタン殉教−広島市西区−
キリシタン殉教之碑 天文18年(1549年)、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸すると、キリスト教は大名、武士、農民層にまで幅広く普及しはじめた。防長の藩主大内氏は布教に寛大な態度をとり、日本最初の教会が山口に誕生する。
 関が原の後、毛利氏が防長に転ずると、替わって福島正則が広島に入封。宣教師コーロスは、慶長9年(1604年)、広島に教会を建て、中国地方一円にキリストの布教活動を行なった。
 広島教会を中心にして次第に信者数は増えたが、慶長17年(1612年)、幕府はキリスト禁止令を発布し、原主水らキリシタン旗本の改易が行なわれた。正則ははじめキリスト教に好意を示していたが、禁止令がでると領内の伝道を禁止し信者の処罰をはじめる。すなわち広島教会は閉鎖になり、元和2年(1616年)には磔の処刑が行なわれた。正則は、元和5年(1619年)、広島城石垣の無許可修築の咎で改易され津軽へ転封になる。替わって浅野長晟が入封してきたが、寛永元年(1624年)、徳川家光が将軍になるころから藩内で激しい弾圧が行なわれた。寛永元年2月から3月にかけ、キリシタン4名が斬首又は磔に処せられ、領内最初の宗門改めが行なわれた。さらに弾圧はエスカレートし、寛永11年(1634年)には、火焙りの極刑に処せられる者が5名をかぞえた。その4年後には、天草四郎時貞が率いる島原一揆が勃発し、乱の翌年から幕府は完全鎖国に踏み切る。以降、キリシタンは地下深くに潜行し、弾圧の歴史は明治の初年まで続く。明治2年(1869年)には長崎の浦上の隠れキリシタン3,380名が捕らえられ、西日本の21藩に流刑になり、拷問によって多くの信者が死亡したのである。
 太田川放水路の右岸、広島市西区己斐1丁目のJR山陽本線脇に「キリシタン殉教之碑」(写真上)が建っている。放水路の土手ではノビルの花(写真左)が咲きはじめた。無数の真っ白い小さな花は、太田川放水路辺りにあった刑場の露と消えたキリシタン鎮魂の手向け花であろう。−平成18年9月−