奈良
藤原京−桜井市高殿町−
大極殿跡
大極殿跡
藤原京
藤原京
 奈良盆地の南部に大和三山が鼎立する。持統天皇の8(694)年、三山に抱かれるようにして藤原京が造営された。東西2.1キロメートル、南北3.2キロメートルの京域に、900メートル四方の大垣と堀を廻らせ、中に大極殿、朝堂院、官衙が建ち並んでいる。藤原京は、日本初の中国風の計画都市。洛陽城を手本にした都は、平城京の三分の一ほどの規模だった。
 和銅3(710)年に盆地の北端、平城京に都が遷るまで、藤原京は、持統、文武、元明天皇の三代にわたる十数年間の都城であった。それはまた、飛鳥京の単なる拡張ではない中央集権国家体制の完成を意味した。藤原京は、飛鳥旧京から約2キロメートルと近いが、采女らには古京は遠く、懐かしい思い出の詰まったところであったに違いない。
 大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱を制し、天下に示した強大な力は天武天皇崩御後、持統天皇に継承された。浄御原令が施行になり庚寅年籍ができると、まず四畿内で班田収受が確実に実施された。税と労役が国家によって管理され、その膨大な有形無形の資産は地上に華麗な御殿と官僚機構を生みだした。持統天皇の感慨もひとしおであったろう。持統天皇の子で皇太子草壁皇子は歳若く薨去したが、草壁皇子のライバルで天武天皇の子であった高市皇子(参照;城上の宮)が薨去すると、ようやく孫の軽皇子(草壁皇子の子。文武天皇。)が即位する。持統天皇もほっとして内裏から香久山(写真下)を眺めることもあったろう。
 春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香久山 
                     (万葉集 持統天皇)
 采女の 袖吹きかえす 明日香風 京を遠み いたづらに吹
 く                   (万葉集 志貴皇子)      
 万葉集の長歌から、藤原京の造営に当たり、近江の田上山(栗東市)の木が切り出されたことが知られている。切り出した木は筏に作り、八十氏河(宇治川)に流し、泉の河(木津川)(参照;恭仁京)に運び入れ、今の木津(木津川市)で陸揚げし、奈良山を越え藤原京まで運ばれた。当時、宇治川と木津川はともに巨椋池に流入しており、池が貯木場の役目を果たしていたから、歌中に「其を取るとさわく御民」と実景が描写できたのだろう。池は干拓によって姿を消した。新都の造営に上総、薩摩など全国からの役民が召集され、その労働の姿は、「神ながらならし」と詠われている。造都のエネルギーは、白村江の悪夢を忘れてひたすら内政に目を向け、令制の整備に打ち込み、税制や土地制度、統治機構の整備を図った天智、天武、持統天皇等によって花開いたのである。−平成19年−
          藤原宮之役民作歌
 やすみしし わご大王 高照らす 日の皇子 荒たへの 藤
 原がうへに 食す国を 見し給わむと 都宮は 高知らさむ
 と 神ながら 思ほすなべに 天地も 寄りてあれこそ 石
 走る 淡海の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜の嬬手
 を もののふの 八十氏河に 玉藻なす 浮かべ流せれ 
 其を取ると さわく御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じも
 の 水に浮きて わが作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨
 勢道より わが国は 常世にならむ 図負へる 神しき亀も
 新世と 泉の河に 持ち越せる 真木の嬬手を 百足らず
 筏に作り 沂すらむ 勤はく見れば 神ながらならし
                           〈万葉集〉 

香具山
大極殿跡から香具山をのぞむ
橿原市藤原京資料室(奈良県橿原市縄手町178-1) 展示資料
藤原京と大和三山
大和三山に囲まれた中央部の区画が藤原宮(約1キロ四方)。藤原宮の北側に耳成山(写真右)、西側に 畝傍山(写真中央上のやや右手)、天香具山(写真左手)が所在する。