奈良
平城京−奈良市−
ますらをのともの音すなりもののふの大臣たて立つらしも
                         <元明天皇>
我が大君ものなおもほし皇神すめろぎの継ぎて賜へる我がなけなくに
                         <御名部皇女みなべのひめみこ
大極殿跡 平城京の大極殿跡に立つ(写真左)。東方に東大寺、興福寺の寺影が市街に浮き出、大安寺辺を佐保川がゆるやかにくだる。佐保路に続くなだらかな佐紀の山並みが集落をつつみ、その西方を流れる秋篠川に沿い西大寺、唐招提寺、薬師寺の堂塔が建ち、平城京の歴史を水面に映す。平城京は佐保川と秋篠川の間隙に栄えた都である。
 和銅3(710)年3月、元明天皇(女帝)は遷都を宣し、平城新京の造営は急ピッチで進められた。京域は東西4.3キロ、南北4.8キロに及びその東辺に外京が設けられるなど、平城京は面積にして藤原京の3倍、三山鎮をなし四禽図にかなった好相の都だった。
 新京の造営には相当の年月を要したことであろう。霊亀元(715)年正月、大極殿前に四神、鳥、月、日で飾られた宝幢が立ち、朱雀門の左右に鼓吹と騎兵が列をなす壮麗な朝賀の式典に、和銅2(709)年に立太子した首皇子(聖武)が礼服を着て出席し、霊亀元年5月に京職の印が頒下されたことが続日本紀にみえ、このころ新京の整備もほぼ終わったのであろう。今日、朱雀門が復元(写真下)されており、往時の追体験ができる。
 平城遷都は律令国家の体制が整い、手狭になった藤原京の発展的な遷都であったと考えられる。防御の諸点からも新都は藤原旧京よりはるかに立地の優位性が認められるだろう。しかし、遷都などの一大事には政情不安が生じることは世の常である。慶雲4(707)年6月、文武天皇が25歳で亡くなる。皇位の継承につき持統天皇がのぞみ支配者層の総意として正嫡の首皇子が後継とみられたものの、年端も行かない皇子ゆえ持統天皇の異母妹であり文武天皇の生母であった阿倍皇女が孫になる聖武天皇(首皇子)への中継ぎとして同年7月に藤原京の大極殿において即位し元明天皇となった。時に46歳であった。
 新京への遷都はすでに文武天皇当時から懸案事項であったとはいえ、その決断と実行は女帝への重い負担となったことであろう。和銅元(708)年、・・・鞆の音すなり大臣楯立てらしも(万葉集)・・・と歌う元明天皇であった。難解な詠歌であるが、時の左大臣は右大臣から昇任したばかりの石上麻呂、後任に藤原不比等が右大臣に就任している。石上麻呂はもともと武門できこえた物部の嫡流で天武朝のころ改姓したものとみられるから、歌の「大臣(おおまえつきみ)」は石川麻呂をさすと考える者もいるだろう。不穏な空気を感じとった石川麻呂が盾を立て戦闘の準備をしていることよと、天皇は石川麻呂に頼もしさすら感じているようにみえる。このころ壬申の乱の悪夢が元明天皇の脳裏に常在していたに違いない。遷都に慎重な態度をとり続けていた天皇だった。すかさず御名部皇女(みなべのひめみこ)が、・・・我が大君(元明天皇)よ心配なさるな、後継を賜っている私がいますから、と答えて歌う。御名部皇女は天智天皇の子で元明天皇と姉妹。その子長屋王は33歳(懐風藻による)、8歳の首皇子より遥かに皇位継承の年齢的な適格性があるわけだ。姉妹という心安さから高市皇子との間にもうけた長屋王かわいさに御名部皇女の口が滑ったのかもしれないが、天皇には肺腑をえぐられるようなショックであったろう。翌和銅2(709)年、急ぐようにして首皇子が立太子しているところから、ショックは深刻なものであったに違いない。ライバルとみられた長屋王は、実際に政敵に警戒されるほど有能な人物であったようであり、後に右大臣、左大臣に昇進し、神亀2(724)年、元明天皇の子元正天皇が聖武天皇(首皇子)に譲位した5年後の神亀6(729)年、謀反の疑いで糾問され自殺している。御名部皇女の歌に長屋王の前途を予感させるものがあり、なんとも痛ましく思われてならない。 −平成21年2月−

宝幡(大極殿前) 朱雀門(街路幅員は築地間89メートル)
宝幡(大極殿前) 朱雀門
(街路幅員は築地間89メートル)
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