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世界の国々には建国神話がございます。民族のよってきたるところを知りまた共存意識や国威の発露にも良い効果があるのかもしれません。
日本では8世紀初頭に編纂された古事記に建国神話がしるされております。古事記は天皇家の記録です。漢文でまとめられた日本書記とはだいぶ編纂スタイルも異なっておりまして読み物としても大変、面白いものでございます。
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| 櫛岩窓神社(拝殿) |
過日、兵庫県丹波篠山市に杖を曳きました。綾部街道(国道173号線)を南に下り、標高200㍍ほどの山地を超えると篠山川(加古川支流)の源流部に至ります。街道に沿って4、500㍍の尖ったビュートの山々が左右に折り重なり、よく管理された稲田のところどころにこんもりとした独立丘が目に入ってきます。北近畿のイメージとはだいぶ違う景色を感じながら街道をしばらく道なりに走ると福井(大芋村(旧村)の域内)という集落がございます。街道脇の小丘の裾に櫛岩窓神社(写真上)の鳥居が見えます。社は10世紀(平安時代)に編纂された「延喜式神名帳」に櫛岩窓神社二座と記された社で多紀郡の式内社九座中、唯一の明神大社でございます。
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| 高城山(八上城)を望む |
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| 篠山盆地 |
櫛岩窓神社が鎮座する篠山盆地は、京都府の亀岡盆地と同じくらいか少し上の生産力のある米どころで、黒豆の特産地としてきこえた産地です。
篠山を含む丹波人の外圧と向き合う姿勢は高城山(写真左)に築かれた八上城に籠城し細川・明智の侵略に抵抗した国人領主波多野氏のように総じて叛骨かつ容易に意思を表に表さない頑固さを感じます。
篠山には古代、旧山陰道が通っていたように京・大坂から日本海岸の但馬・丹波、出雲に向かう物流の要であるとともに、山陰や西国から侵入する外敵を阻止し京・大坂を防衛する拠点としても大変、重要視されたところと承知しております。徳川家康が西国大名を動員してまでも八上城を統合して篠山城を築城したことはご案内のとおりでございます。
古事記神話と櫛岩窓神社
8世紀に編纂された「古事記」の天孫降臨神話に天石門別神を従えてニニギノミコトが降臨する記事がございます。天石門別神は櫛石窓神・豊石窓神と同神で御門の神とされております。「古語拾遺」によるとアマテラスオオミカミが天岩戸から出て新殿に遷座したとき御門を守護した神と説かれております。延喜式神名帳をひらくと全国に2861社、3132座の神々が鎮座してございます。しかし祭神はほとんど記載されておりません。そこで江戸時代の書物で出口延経や伊勢神宮の祠官などがまとめた「延喜式神名帳考証」によると櫛岩窓神・豊石窓神が鎮座する社が全国に二箇所ございます。一つは宮中の神祇官西院の四面に祀られた御門巫祭神八座と、もう一つは丹波篠山の櫛岩窓神社二座です。櫛岩窓神・豊石窓神はどこから、どのような事情で宮中や多紀郡篠山(丹波篠山市)に祀られるようになったのか疑問が生じてまいります。
宮中神祇官西院御門神の正体と櫛岩窓神社
古来、宮中の御門神など諸神の祭祀に忌部(いんべ)氏がかかわっていたことはよく知られております。忌部の故地は全国に点在しており例えば、四国忌部は践祚大嘗祭に伴う麁服(あらたえ)などを今でも宮中に貢進しておりますし、故地を訪ねると原始宗教を思わせる磐境の遺跡などもございます。
古事記神話では岩戸から出たアマテラスオオミカミの神殿の御門に宿った神について、天皇家と忌部の関わりから忌部が櫛岩窓神・豊石窓神二座を宮中神祇官西院御門に遷したとみることができるかもしれません。
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| 櫛石窓神社宮山 |
ところが今ほど申上げた神名帳考証では‘宮中の門扉神である櫛石窓神・豊石窓神二座の本社は丹波国(篠山)の櫛石窓神社である’と記されてございます。そうするとまた、なぜ篠山に櫛岩窓神社に櫛石窓神・豊石窓神二座の神が鎮座するのか、神話の成り立ちに疑問が湧いてまいります。
改めて二座を比較すると、いずれの神名にも‘岩窓’を共有し、門扉からは‘石の門’がイメージできまた、‘櫛’と‘豊’はそれぞれ‘珍奇に硬い’、‘巨大’な石柱の形容と考えても的外れではないと思っております。一つの神を御門に見立て二座の神として祀ったと考えられます。
大芋の櫛石窓神社の宮山は今ほど紹介した道端の小丘でございます。宮山はご神体の宿る神山とされ、山頂に巨大な岩がゴロゴロ散らばり、ストーンサークル様の岩石の輪に巨大な石柱が2、3本、屹立すると言う者もおります。しかし禁忌からか今も昔も神山に登頂した者はいないようでございます。
「式内社の研究」(志賀剛著)によると、櫛石窓神社の由来について、兵庫県神社誌や登頂した者の報告などを引用し、宮山山頂の様子を紹介した上、‘神名はおそらく宮山の霊石により宮中の御門神にあやかって神主がつけたものであろう。’と記されております。古代に、神主が宮中で奉祀する神々を勝手に勧請したというのはいささか理解に苦しみます。話は真逆のように思われます。敷衍しますと大芋の櫛岩窓神社二座の神は宮山頂上や山麓に存在する磐座(いわくら)を崇め奉った原始信仰に由来し、もともと当地に鎮座する神々としてあまねくよく知られていたからこそ古事記編纂のおりアマテラスオオミカミの降臨神話に係る御門神に採られ篠山から宮中に遷されたと考えられます。
大芋の繁栄と倭彦王の躍動
櫛岩窓神社は旧大芋村に所在します。大芋の古老と雑談をしておりますと古老曰く、「大芋の山は岩山が多いです。山頂や山麓にそそり立っております。珪石を掘った洞窟(坑道?)があちらこちらにあります。」と仰る。珪石の掘削時期はよくわかりませんが古代、鉄の精錬に必要な鉱物でした。さらに、今日では半導体デバイスの希少金属が採れる鉱石でございます。
鉄の精錬は日本では5世紀後半から6世紀初頭ころから始まったとされております。そのころから珪石は交易対象あるいは当地産の鉄生産に必要な原石として大芋や県守(あがたもり)等の多紀郡内において、豪族の支配のもと掘削されたのではないかと、単純にそう思ったしだいです。
さらに古代、権力と祭祀権は密接に結びついておりますので、豪族である県主や国造など一人の権力者によって櫛岩窓神社二座も奉斎され天地の安穏を祝部されたんじゃないかと思います。
そのように考えると、鉄器の生産・流通や稲作によって力を蓄え、櫛石窓神社の祭事権を握った篠山の王は丹波の国造はもとより大和王権をけん制する勢力を誇り、遅くとも5世紀後半には絶頂期に至って大和王権に請われて櫛石窓神社二神(座)を宮中に遷座させたと考えてもいいんじゃないかと、考えております。
大芋篠山の豪族こそ雲部車塚古墳に眠る‘倭彦王’ではないかと思っています。後ほどご紹介します。
男大迹王擁立の陰謀
6世紀初頭、武烈天皇が亡くなり継嗣が絶えたおり、大伴金村大連らが応神天皇五世の孫と伝えられる男大迹王を越前国(日本書記。古事記は近江国とする)三国(現丸岡町)より迎え、河内国樟葉宮で継体天皇にお立ちになりました。
しかしこれには前史がございまして、日本書記にこう記されております。「大伴金村が《仲哀天皇五世の孫の倭彦王が丹波国桑田郡におられる。試みに兵備を整えて乗輿の周囲を固め、お迎えして人主にお立てしてはどうか》とはかり、大臣、大連らは金村の意見に従って倭彦王を迎えに向かったところ王は軍兵に遠くにみてびっくりして色を失い、山中に逃げ入って行方をくらました」とあります。男大迹王、倭彦王とも天皇五世の孫とされ疎遠の感なしとしません。そこに大和における氏族間の激しい対立が予感できまた丹波、越前など日本海側の豪族の勢力を無視できなかった当時の事情がそうさせ、五世の孫はその裏返しの結論であったと思われます。
日本書紀を読むと倭彦王は男大迹王にくらべ気の弱い王に描かれ逆に、男大迹王には堂々とした風格がにじみでております。倭彦王の記事は古事記に記されず結論ありきの男大迹王擁立であり古事記に載せたくない事情も朝廷にあったと考えられます。つまり6世紀初頭の大和王権内部に息長氏のような近江・越前の縁者が描いたストーリーに大臣・大連の権臣らがのせられたというべきでしょう。
倭彦王の正体と雲部車塚古墳
桑田郡にあって倭彦王という立派な名前がつけられた王とは一体、何者なのか。 通説は丹波国桑田郡内に所在する千歳車塚古墳(前方後円墳。規模墳丘長約82㍍・高さ約7.5㍍。亀岡市)の被葬者を倭彦王に充てております。一方、多紀郡内の櫛岩窓神社から4㌖ほどのところに雲部車塚古墳(前方古円墳。墳丘長140㍍・高さ13㍍。丹波篠山市)がございます。桑田郡のそれより一段と規模も大きく立派な雲部塚古墳の被葬者こそ倭彦王ではなかったかと考えております。
雲部車塚古墳の築造時期
古代の郡里制における郡域については資料不足でよくわかりません。日本書紀の編纂当時のそれをもとに郡域を決めてしまうことにはだいぶ違和感がございます。丹波の「旧高旧領取調帳」などから篠山藩や氷上郡の諸村が桑田郡の郡域に整理された時期がありますし、律令国家が成立する以前の4~5世紀の郡の行政区画の仕
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| 雲部車塚古墳 |
切りなどよくわかりません。雲部車塚古墳の築造時期について私は3~4世紀ころかと思っておりますが前方部から須恵器出土の知見もあるようでございます。被葬者が6世紀前後に埋葬された可能性は否定できません。そうすると築造時期が今ほど申上げた武烈天皇の継嗣問題の時期と亀岡、篠山の両古墳とも符合いたします。しかし雲部車塚古墳は主体部(後円部)の発掘が行われておりません。前方部の埋葬施設は後円部より後になる可能性は否定できません。しかし宮内省の管理下にあって発掘不可と思われます。発掘調査は夢物語になる可能性がございます。6世紀中期までに倭彦王が雲部車塚に埋葬されたと考えることもできるかと存じます。
稲荷山古墳と渡来人
大芋を歩いてまいりましたので少し稲荷山古墳を見学した感想を紹介させていただきます。
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| 稲荷山古墳 |
福井集落から1㌖ほど南の小田中集落の街中に稲荷山古墳(写真左)がございます。住宅地に接した尖った山頂に全長30㍍の前方後円墳を築き、後円部に横穴式石室が設けてございます。羨道の入口が露出しております。案内板から古墳の概要をみると石室の全長は6.35㍍、羨道と玄室がT字に交差し、羨道幅約1㍍に対し玄室幅3.66㍍(奥壁)となってございます。さらに高さ2㍍の玄室の構造を見ると、割石を6、7段に横積みし、持ち送りの技法によって上に行くほど割石を玄室の内側に寄せ、狭くなった上部の空間に石の架(蓋)を置き土が被せてあります。玄室はアーチ状の天井のように造られ、築造時期は6世紀ごろで朝鮮半島の影響を受けた古墳と説明されています。この古墳もまた雲部車塚古墳の被葬者が生きた時代に重なっております。
古代の大芋の珪石の掘削や冶金等々の産業技術や技術者集団など雲部車塚古墳の被葬者との関わり等々を考えるうえで古墳の存在は大変、重要に思います。
墓制は容易に変化しませんしまた、この古墳の築造例が国内に少なく在地の豪族があえてそれを築造する可能性は少なくかつ、朝鮮半島の新羅・安羅の古墳と手法が酷似しているところから渡来人が築造した古墳である可能性が高いと思われます。そして彼は倭彦王とともに篠山がもっとも輝いた時代をつくった一人ではないかと思っております。-令和8年1月16日-
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