兵庫
雲部車塚古墳と四道将軍丹波道主命の接点-丹波篠山市東本庄-
古墳(東側)
 萩が咲き始めたころ、丹波篠山市東本庄所在の雲部車塚古墳に杖を曳いた。
 古墳は篠山盆地の東端に位置し園部、京都に通じる主要幹線道に接し、緩やかに傾斜した水田が盾形の古墳の周濠を潤す田園の中にある。古墳は外周域に複数の陪塚を伴い、南端のそれは幹道によって分断されてはいるが総じて、保存状況は良い。遠目には大和の箸墓(はしはか)によく似た丹波青垣の中に車塚はある。
 古墳は墳丘長140㍍(元は三段築成で推定158㍍)の大型の前方後円墳。明治29(1896)年に住民によって発掘され、明治33(1900)年に陵墓参考地とされ現在、宮内庁によって管理されている。明治期の発掘から、古墳は竪穴式の埋葬施設に縄掛突起を付した長持形石棺を据え、その周囲から甲冑・刀剣など多数の副葬品が出土している。その多くは埋め戻されという。石棺は未開封かつ後円部に別の埋葬施設が存在する可能性が指摘されており、車塚は謎に包まれた古墳といえよう。築造時期は5世紀中葉ころとされている。
 古墳とその副葬品とも立派かつ日本書紀に崇神天皇の治下、丹波道主命(たにわちぬしのみこと)(開化天皇の孫)が丹波に派遣された記録が載り、宮内庁は車塚を同命の墓と推認したのであろう。崇神天皇は遅くとも4世紀ころの天皇。5世紀中葉の天皇ではない。書記の記録と考古学的知見が甚だしく異なり、車塚は丹波の歴史の謎の一つと言えそうだ。
 車塚の被葬者は不明。古墳まわりを歩き、遠い昔を夢想してみよう。
 道主命は日本書紀において、次のとおり記されている。
⦅…崇神天皇10年9月9日、民を導く本は、教化(おしへおもぶく)にあり。今、既に神祇を礼ひて、災害皆()きぬ。然れども遠荒(とおきくに)の人等、猶正朔(のり)を受けず。…それ群卿を選びて、四方に遣わして、朕が(のり)を知らしめよと群卿に詔した。…丹波道主命をもて丹波に遣わす。因りて詔してのたまわく、もし(のり)を受けざる者あらば、乃ち兵を挙げて()てとのたまふ。⦆とある。書記の四道将軍派遣の記事の一節である。派遣理由について、天神地祇を敬うと災害は消え失せるが、僻遠の国の人どもはまだ臣民となっていない。これは王化に慣れていないためである。そこで群臣を呼んで教えてやれ、教えを受けないものがあれば直ちに戦争をおこして討伐せよと仰ったと派遣理由を示し、丹波に丹波道主命が派遣されたと書かれている。
 書記の記事は丹波がヤマト王権によって王化(征服)されていく過程において王化の効果を宣伝したもの。その時期は額面通りだとキリストの生誕以前の紀元前2世紀ころの記録。笠井倭人氏などの研究によると根拠を示した上、崇神天皇の在位は3世紀後半から4世紀前半としている。歴史時代の始まりといわれる書記の記述は大変、重要である。
 崇神天皇の時代、丹波を始め我が国は部族の自己完結型集団からようやく脱皮しかかった国々で構成され、互いに情報を共有しながら政治集団(王権)を築くため切磋琢磨した時代ではなかったか。丹波とヤマトとの政治的な上下関係がないまま丹波に前方後円墳が在っても何の不思議もない、と私は単純にそう思う。そのような状況は基本的に律令国家の光が見え始める大化改新ころまで続き、墳墓の形態等一つとっても遠荒(とおきくに)によりヤマトと同等或いは勝る遺物が存在し、埋納されることもありえないことではない。
 旧丹波(今の丹後)には弥生時代に築造された方形の大規模墳墓が存在する。そのような弥生の文化に朝鮮半島との交流によって伽耶国などから移入された円墳の築造技術が混交し前方後円墳が丹波で誕生したと考えることも根拠のないことではなかろう。古墳時代も決してヤマトファーストではなかった。妄念かもしれないがつらつら考えながら、丹波を歩くのまた楽しいものだ。
 車塚の築造年代は発掘された遺物から5世紀中葉とされている。時代が伝説と合わないという基本的な問題がある。書記との齟齬の一つに2004年(平成16年)に古墳から埴輪とともに発見された須恵器の存在がある。加えて、日本書紀では丹波を王化するため群卿に詔して丹波道主命を派遣し、命は印綬を賜ったことになっている。しかしそうではなく丹波の部族長たる丹波道主命が、中世の丹波の国人のように丹波からヤマトの王権に版図の安堵を求め、安堵されたしるしに印綬を賜った、或いはヤマト王権から丹波の王に友好のしるしに贈った印綬であった可能性も否定できない。後者の場合、記紀では丹波道主命は開化天皇の孫としており、記紀の記述は辻褄合わせの後世の作り事になってしまう。
 車塚は丹波の統一に限らず、日本の統一過程を探査するためにも丹後の巨大古墳とともに大変貴重な古墳と思う。我が国の社会は中国及び朝鮮半島の文化を手本として発展してきた経緯があり、初めからヤマトファーストではなく各地の王者が競い合って発展したという視点から古墳時代を再考する必要があるのではないかと思う。-令和7年7月-

古墳(北側) 古墳(西側)