兵庫
篠山城残影(家康の光と影)-丹波篠山市北新町-
 
丹波篠山城
 丹波に篠山城の遺構がある。城はデカンショ節で知られる丹波篠山(北新町)の旧山陰道の要部にある。そこは京都、大阪、山陽、西海に連なる交通の要衝地。篠山城は城の南方を流れる篠山川(加古川支流)を要害とし、高さ30㍍の独立丘に造られた平山城である。
 城は独立丘を削平して本丸、二の丸を梯郭式に設えて内堀で囲み、平地の三の丸と二の丸は邸郭式に設えてある。城の周囲は外堀で囲われ、その外周はほぼ400㍍の正方形。伊予(愛媛県)の今治城と似ている。
 城の外堀の北、東、南の三方に(かく)馬出(うまだし)を設え虎口(こぐち)を守る。土塁造りの南の馬出は完全に保存された日本唯一の遺構である。
 城は明治維新の廃城令によって建築物のすべてと三の丸の諸施設、土塁、北の馬出が取り壊された。残った石垣と濠が昔日の篠山城を映して懐かしい。城地に復元された建築物も少なくない。春夏秋冬、城の高みから丹波の四周を眺めるのもまた良い。
 篠山城の遺構は堅固かつ不相応に立派にみえる。築城以来400年余を経て石垣に狂いがなく四隅の稜線が美しい。
 築城当時(慶長14(1609)年)の篠山藩の石高は僅か5万石。税収は年額45億円(石盛石高×年貢率(三分の二)×1石当り米価。米価は10㌕9千円で換算)程度とみられる。石高の2割を10年間貯め続けてもとうてい築城経費を賄うことは不可能なほど篠山城は立派にみえる。
 篠山城築城の経緯をたどってみよう。
 篠山城は徳川家康の命により造られた城。豊臣秀吉の死後、家康は慶長5(1600)年9月、関ケ原に大坂方(西軍)を制したが豊臣家の嫡子秀頼の首級を挙げたわけではなかった。関ケ原は家康が真の天下人となるための前哨戦だった。
 家康は慶長8(1603)年2月、伏見城において朝廷から待望の征夷大将軍の宣下を受け、幕府を創設した。同年7月、大坂にて秀頼と千姫(徳川秀忠の娘)の婚儀が行われ、新旧天下人の和議は整いつつあるかにみえた。
 慶長5(1605)年5月、家康は将軍在籍2年余で秀忠に将軍職を譲り、秀頼に上京(京都)し新将軍への挨拶を行うよう求めたが拒否されている。「当代記」によると秀頼の母淀殿は怒り、強要するなら秀頼とともに死ぬとまで言ったと書かれている。家康が折れ、名代を大坂城に使わせ秀頼の了解を取り付けている。人は互いに面子にこだわり、人の上下をつけたがるものらしい。この場合、明らかに体面を潰され家康は豊臣家を潰す決意をしたと言う者もいるが早計であろう。家康は怒りの正当性と勝負の行方をきちんと計算しないで喜怒の感情を表す人ではないと思われるのである。
 家康は開幕後、江戸の屋敷地を外様にも与え、長崎奉行、伊勢山田奉行、江戸町奉行、京都所司代を設き、幕府領支配地の支配体制を整えた。慶長16(1611)年3月、京に上り二条城において西国大名に対し頼朝以来の武家政権の継承を宣言。同日、北政所(秀吉夫人ねね)立会いの下、秀頼と会見し政権継承を通告した。会見の子細はよくわからないが、ねね縁の京都高台寺の建立に少なからず家康の援助を得ていたねねがいる中、会見が荒れたものになるはずもなく家康の老獪さばかりが目立ったに違いない。
 関ケ原後も大坂城は落ちてはいなかった。関ケ原はいわば秀吉(後継秀頼)と家康の地位からみて家康の反乱と言えなくもなかった。関が原後も西国には秀吉の恩顧を得た大名たちが残っていて、秀頼やその母淀殿(茶々とも。秀吉側室。父浅井長政、母お市の方(信長の妹))も健在。家康は枕を高くして眠れる状況にはなかった。大坂冬の陣を経て大坂夏の陣(元和元(1615)年)で決着をみるまで、関ケ原から実に十余年。大坂方はしぶとく復権を窺っていた。家康は秀頼を煽て時には、なすことに因縁をつけながら秀頼に武家でも公家でもない官位を与えて大坂城から追い出すタイミングを計っていたのだろうか。
 一寸先は闇、家康は後継を秀忠に譲り、駿府に隠居することがあっても大坂城を目指す西国大名の動向に目を光らせまた有事の際、防衛拠点となる城の整備を着々と進めた。その一つが篠山城の築城だった。
 家康は山陰方面から南下する脅威を山陰道で遮断するため、一門の松平康重を丹波篠山藩主に封じ、築造は天下普請(幕府の命による土木事業等)によって行われた。普請総奉行・藤堂高虎(津城主)、目付・松平重勝等、助役に山陰、山陽、南海の諸大名20家(福知山城主有馬豊、姫路城主池田輝政、和歌山城主浅野幸長、萩城主毛利秀就等の蒼々たる諸大名を動員(総石高約400万石)し、8万人の人夫(作業員)を800組に分け築城。慶長14(1609)年に着工し翌15年に竣工し、工期半年の突貫工事だった。石垣や作業員の費用は助役持ちという過酷な天下普請だった。石垣は実に堅固。家康は天守台に天守閣は作らせなかった。謀反を警戒し、年貢の費消を企図した家康の深謀とする説もある。
 それにしても篠山城の築造に一体、どれほどの資金が投入されたものか。築城について、突貫工事が進められる中、事業費総額は180億円(下記※筆者の試算参照)では足りず、270億円(5割増し)を上回る巨費を要した可能性も否定できない。
 ※諸大名20家の支出総額(築城経費)=総石高400万石(石盛高)×13.5万円(1石当り米価。10㌕9,000円(想定))×三分の二(年貢率)×5㌫(対築城平均支出率(想定))=180億円
 当時の米価の評価や労働管理状況など時代環境を考慮すれば築城経費180億円を上回る費用を要しただろう。ゼネコンの試算に期待を寄せたい。 
 近畿地方では篠山城、丹波亀山城(亀岡市在)、二条城、膳所城(大津市在)、彦根城、伊賀上野城が天下普請によって築城され、大坂城の囲い込みは着々と進められた。
 篠山城築城から数年後、機は熟したというべきであろう。家康は大坂冬の陣を経て、元和元(1615)年5月大坂夏の陣おいて大坂城を炎上させた。淀殿と秀頼は同月8日朝、二の丸の帯曲輪で自害し、大野治長ら重臣は殉死し落城した。
 落城を見届けた家康は直ちに二条城へ凱旋。秀頼の子国松(8歳)は京の六条河原で処刑され豊臣家は滅亡した。戦後の首級実検によると首級は西軍1万4,530、残党600余首とされる。-令和7年7月-
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