大阪 | ||||||||
橋のいろいろ―大阪市、岩国市等 | ||||||||
架橋の証拠を残す最も古い橋は、山城の宇治橋。4言24句の石文からなる宇治橋碑断石が橋寺(放生院)に現存する。石文は、「人馬亡命」「莫知杭竿」など架橋の経緯に触れ、 道登は仏徒であって、碑断石中に「成果彼岸」の教旨がみえ、当時の公共事業のあり方を探るうえでも貴重なものだ。讃岐の満濃池の修築に弘法大師を必要とし、奈良東大寺の再建に重源を必要とした。大化改新をもって税収基盤を確立した国家といえども、公共事業の実施につき事業費の出費や架橋技術に多くの課題を抱えていたことであろう。古代から藩政期に至るまで、架橋事業は帰化人の技術を得つつ僧侶によって主導され完成したものがはなはだ多いのである。
日本の橋は、独木橋(丸太橋)にはじまって、縄橋、蔓橋、呉橋、鞘橋、石橋など多様な形式がある。現存する古橋も多い。宇佐神宮の呉橋、金比羅宮の鞘橋(写真右)などは木橋の古典だし、祖谷山のシロカズラ橋は今では観光施設としてよく知られている。 中国風の石橋は、日本では比較的、歴史が浅い。皇居の二重橋(写真右)や長崎の中島川の眼鏡橋、天草の町山田川の祇園橋、熊本の坪井川の明八橋など石橋の中には熊本県下の水路橋を含めて、今も供用されているものが随分ある。百済川に架けられたゐかい津の小橋の構造は不明であるが、日本書紀に特記されるくらいだから単なる木橋ではなかったのであろう。百済川は大阪湾に通じ、舟の往来が想定できるから当時としては珍しいアーチ式の呉橋(石橋)が架けられたのではないかと思う。だからこそ、小町歌集にみられるようにゐかい津の橋として、後世にまで語り継がれることになったのだろう。 鹿児島の甲突川や諫早の眼鏡橋は一応、役目を終えたが、人々の脳裏から消え去ることのない名橋である。それぞれ地元の公園で保存、展示されている。
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